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夕べは3時半まで起きていた。 まあ、珍しい。 ねぼすけタバスコは夜更かしが苦手。 11時20分ころテレビをつけたら、教育で舞台中継をしていた。 すぐに引き込まれて見続けてしまった。ラテ欄で確認したら平田オリザの「別れの唄」。 惜しいことをした。最初から見たかった。 フランス人がフランス語でしゃべっていて、日本人もフランス語でしゃべっている。字幕がでている。 背景は日本の和室。 通夜の場面らしい。 途中からだから何がなんだかわからずに見ている、が目が離せない。 日本人と結婚したフランス人女性の通夜らしい。 妻を亡くした夫とこの夫婦と同居していた夫の妹が日本人で、フランスから両親と弟が駆けつけてきている、らしい。 日本人の夫が葬儀屋と明日の葬儀の段取りを相談している。 男の妹もフランス語は流暢。 何を相談しているのかとフランス人の両親が妹に尋ね、妹は答える。 例えば、弔電はどうするかという相談で「チョウデンってなんだ?」と聞く。妹は説明する。 葬式の席順はどうするという相談で「フランスでは席順など決めない」とフランス人は言う。でも日本式に従おうと一応は思っている。でも理解できない風習もあり、いちいち不思議に思い、しかし、日本式を尊重しようとする、でも、やっぱり変だなと思うことが多い。 比較文化論の研究者みたいなフランス人女性がいて(彼女が死者とどのような関係であったかは最後まで私にはわからなかった。最初から見ていればわかっただろうけれど)ときどき文化の違いについての補足説明をしたり意見を短く述べたりする。 席順のことでややもめているとき、「タヒチでは旅人を送るときの村人の並び方はとても重要」とコメントする。 で、話はいろいろつまづきながらも進む。 フランス人女性の前夫が女性の死を知ってフランスから駆けつけてきたりもする。泣き叫んだりしてやや紛糾する。 日本人の葬儀社の担当者の立ち居振る舞いが日本人の類型としてややデフォルメされているが、日本人らしくてフランス人には奇異に見える。 つまり異文化のぶつかり合いを、通夜のシーンに凝縮して見せてくれているわけで、それ自体は特別目新しいものではない。 だけど私を引きつけて目を離さなくさせているのは、人の死という絶対的な現実の前で人間が垣間見せる感情の共通性に気持ちが揺すぶられるからのような気がする。 とはいえ、表現はフランス人と日本人はやはり違うのだ。 夫が席を外したとき、フランス人両親は妹に「彼は何故泣かないのか?」と聞く。娘と不仲だったのか、という不信感も生まれる。 日本人の男は滅多に人前では泣かないのだ、とか葬儀の場では身内のものは毅然とするのが日本の礼儀だとか妹は説明する。 でも両親はやはりさびしい気持ちがする。 衝撃的なセリフで度肝を抜くような仕掛けがある芝居ではない。 目新しさを提示しようと意気込んでいるものもない。 ひとりの女性の死を前にした家族のしずかな会話で綴られていく。 死に対する人間としての普遍性を語っているものでもない。 違和は理解し合えないままのようだ。 散歩にでていた死者の弟が戻ってきて、今夜は満月だと言う。 妹がそっと席を立つ。 「どこへ」と皆が思う。 「マリー(死んだ義姉)に満月を見せてあげたいから窓を開けにいく」というそのことばに違和を抱くものはいない。 そして静かに幕が下りる、というお芝居。 見終わったら12時20分で、そのあと作者の平田オリザの話しもおもしろくて見てしまった。 興奮が尾を引いて3時過ぎまでうろうろして、お布団に入ってもなかなか寝付けなかったというわけです。 あ、そうか! 夕べパリで白夜に遭遇する夢を見たんだけど、このお芝居の影響なのかな。 今はたと気が付いた。 ウハメラには、なんでパリの夢なんやっていちゃもんつけられたのだった。 自分でも唐突な夢のパリの出現やったが、この日記を書き終わって、いま、合点がいったのだった。