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よその日記のレスを書いていて思い出したことなんだけど。 死顔ってことばで瞬時に思い出された映像があった。 大学時代の先輩の死顔。 綺麗にお化粧してもろてはった。 大学のクラブの先輩なんですけど、私一浪してたから年齢は一緒やったと思います。 20歳の死です。 とても小柄な人やったんです。身長が145センチくらい。 夜更けにトラックにはねられて、脳死状態やったんでしょうか。 3日間ほど身元不明のままで、下宿のおばさんが3日目にひょっとしてと警察に届け出てやっとわかった。 身長から小学生と間違われて身元判明に手間取ったらしいです。 東北(福島県?)から京都の大学に来てはったんです。 私ら(クラブの仲間)が病院に駆けつけたとき、まだご家族は着いてはらへんかったような気がします。 その後の記憶が曖昧なんですけど、何日間かそういう状態が続いたような気がします。 しずかに息を引き取られたのか、ご家族のつらい決断の結果だったのか、臨終が私たちに知らされました。そのとき病院の周辺で友だちとバカ話してました、タバスコは。 そのまま家につれて帰りたい、とのご家族の意向でした。 寝台車が用意できるまでの短い時間に、「京都で仲良くしていただいた皆さんにお別れさせてやりたい」とお母さんがおっしゃって、病院の好意もあったんでしょうね、霊安室で萩原さんの死顔に対面しました。まだ息を引き取られてそんなに時間が経っていなかったからか、頬はピンクでした。頬紅をつけてもらってはったのかなァ。萩原さんはもともと麻生祐未に似た華奢な感じの美人でした。死顔が穏やかで綺麗で「うわっ、きれい」と思ったことを覚えています。 クラブの仲間やクラスのお友だちで病院周辺はちょっと混雑してました。 その混雑の中、ようやく到着した寝台車に萩原さんは乗せられて、お父さんと、お母さんと、お姉さんに付き添われてお家に帰りはりました。 紀子はようやく土に還りました、というご両親からの納骨の報せの手紙が大学のクラブ宛に届いたのは一周忌を終えてから。 私はクラブを途中で辞めちゃってあのときの仲間との交流も途絶えている。 萩原さんのことを思い出すこともほとんどなかった。 でも昨日ふっと思い出してからずっと頭から去らない。 30年前のことです。 もしかしたら、萩原さんのご両親ももうお亡くなりになっているかもしれない。 こんな気まぐれな形で思い出されて萩原さんが喜んでくれているかどうかわからないけど、思い出した萩原さんを記憶の納戸の奥に簡単に片付けることにちょっとためらいがある。 なんでやろ。 年とったせいかな。