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こないだの帰省の折、母から聞いたこと。

昔話の中で。

父が在日韓国人であることは何度か言っておりましたが、そんな父の友人の話です。
娘から見て父親の交友関係って正確にはつかめていないから、友人と言ってもどの程度の親密さであったかとかはよくわからない。

私の記憶としては、その人は我が家では「せんさん」と呼ばれていました。
「せん」が名前の一部なのか、韓国の姓なのかもわからないです。
ちょっとひょうきんなおっちゃんでした。
言葉には韓国訛りがかなり残っていて、風貌もいかにも韓国人っぽい人です。
ええと、「パッチギ」にでてきた笹野高史風といえばわかりやすいか。私はこの人のこと嫌いじゃなかったです。

まだ壬生に住んでいたころ、せんさん一家も近くに住んでいたようで、母が買物帰りなどにせんさんの家に立ち寄ってせんさんの奥さんと玄関先で話している情景が思い出せます。せんさんはビニールのカバンを自宅の一部を作業場にして簡単な機械で製造するという仕事をしていた。小学生がプールに持っていく、透明な袋ね。
貧乏してはるのが子どもの目から見てもわかりました。私と同い年の女の子がいて、その子が長女でその下に男の子が二人いたように思う。奥さんが貧乏を嘆くような口ぶりで母に愚痴を言っていたような気がする。

せんさんは我が家に来て、父とお酒を飲んでいることもあったかもしれません。そのときも浮世の辛さを酒に紛らすような、そんな飲み方、喋り方のかすかな記憶。

父にはそういう似たような境遇の友人が何人かいたように思う。
みな貧乏で、訛りが強く、パッチギの住人のような人たち。

そんな友人たちの中で、父は娘のひいき目もあるのかもしれないけど、しゅっとした(関西弁でスマートなって感じ?)人で、そして何より不思議なのが父にはまったく訛りがなかったんです。
読み書きができない人もいました。せんさんもそうでした。
少し大きくなると、我が家に出入りするそういう人たちが、いろんな書類を父に代筆してもらいに来ているということもわかってきました。
父は小学校もまともに出ていないけれど独学で高卒程度の学力があり、働きながら大学に聴講生で通った時期もあったそうです。父は学校の先生になりたかった、というのを聞いたことがあります。いかにもその職業が似合ってそうな人でした。貧乏がそうはさせてくれなかったんでしょうね。
母との昔話の中で、改めて父の人となりに触れ、父の人格を誇りに思ったり、懐かしさ、恋しさを新たにしたり・・・
でも、今日の話はせんさんのことね。

西京極に引越ししたことでせんさんとも少し疎遠になりました。
せんさんが一念発起で中華料理店を始めたこと、それが思いのほか成功しているという話を父母の会話から漏れ聞いたりしていました。

もう30代後半か40代になっていたかもしれないその時期からの転身は大変な苦労があったんだろうなぁと今そんな話を思い出して考えます。

成功したせんさんの店に両親と私と3人で行きました。
すごく印象に残っているのは、その日が高校の合格発表の日だったこと。

お店は繁盛していて私と同い年の長女が立派にお手伝いをしていました。
高校へは行かずお店の手伝いをすることを奥さんがうれしそうに話し、その女の子もそれを誇らしそうにしていたのが、私には驚きだったわけですが、それはどんな驚きだったんだろうね。うまく思い出せない。ええと、その女の子がすごく美人になってたことも驚きだったんだけど、それもどんな気持ちでそれを見ていたのかうまく思い出せないんだけどね。でもなんだかとても印象的な夜でした。

それからまた数年が過ぎて、何かの折に、母がせんさんの美人の娘さんに縁談を持って行ったら、もう決まった人がいるらしい、とかそんな話を漏れ聞いた記憶が一つ。
その後はもうせんさんにまつわる話は思い出せない。

で、今回母との昔話でせんさんの話を聞くことになりました。

せんさんはその後もお店は順調に繁盛し、息子さんが跡を継ぎ・・・
そうこうしていたらお店が道路拡張に伴い立ち退きになり、それがバブルの絶頂期で、法外な立ち退き料をせんさんは手にすることになった。

立ち退き後の店舗も確保でき、それでも余りある財産を作ることができ、やれやれという矢先、せんさんは急死されたそうです。トイレで倒れ、そのまま。
20年くらい前の話。そうか、せんさんそういう亡くなり方やったのか・・・

「もうせんさんの家族が今はどうなってはるか全然知らんえ」と母はこの話を締めくくろうとして、思い出しついでにこんな話をしてくれた。
「せんさん言うたら、あんた覚えてるか?」
と面白そうに話し出したんだけど、全然私は覚えていない話だった。
せんさんは我が家に来ると末っ子の私をよくからかっていたそうです。
「タバちゃんは橋の下に捨てられてたんをおっちゃんがひろてきてこの家に預けたんやでぇ」
来るとせんさんはいつも私にそう言って私を泣かしてたんだって。
覚えてないなぁ。私はせんさんになついてて、ひょうきんなこのおっちゃんによく笑わしてもらってたと思ってたんだけど。
で、その話を学校の作文に私が書いたんだって。

その話がおもしろいて先生に褒められたやん。おかあさん、よう覚えてるえ~、あんた覚えてへんのかいな。

へええ、どんなこと書いたんだろ?
そのつづり方(作文ではなくつづり方と母は言った)読んでみたいなぁ。

我が母は子どものそういうものをきちんと保存しておく人ではなかったのでどこにもありません。

タバスコの、一世一代の名作文だったかもしれんのになぁ。



 
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母(85歳)を連れてお出かけ週末でした。

京都南インターから名神、近畿道、阪和道を経て和歌山県岩出市ってとこまで。

初めて走る高速。知ってはいるけどあまりなじみのない地名表示が新鮮でおもしろかったりする。

「松原」は、死んだ父が9歳くらいまで暮らした土地なんだそうだ。
夫を亡くして故郷で食い詰めて、なんらかのツテを頼って父の母は幼子を抱えて異国に流れ着いたのだろう。
それが松原という名の土地だったことは初めて聞いたなぁ。

それから堺に移り住んで、堺で暮らしていたことは聞いたことがあったけれど。



高速を走る車の中、85歳になった母と61歳の長女と55歳の三女の私たちの会話の中で父がよみがえる。

「その後、お兄さんの奥さんと折り合いが悪くて一人で東京へ行かはったんやって。」

そのお兄さん夫婦は戦後韓国へ戻り、父は一人日本に残り母と結婚し私たちが生まれたわけだ。

岩出市には二年前から二番目の姉が住んでいる。

http://
r.tabelog.com/wakayama/A3001/A300102/30004330/dtlrvwlst/2732395/
こういうお店をやってる。


母がこの姉の家に連れて行ってほしいと前から言っていたので、今回上の姉と相談して出かけてみたわけです。

娘三人と母、雑魚寝の夜でした。



http://blog.livedoor.jp/tabasco526/archives/50510553.html

「雲のじゅうたん」のこんなシーン、思い出したなぁ。





金曜日の午後から出かけ、その夜は京都に泊まり翌朝大阪の姉を拾って和歌山に向かうという手筈で。

折よくヒカリも大阪に用があるのでいっしょに、6時までに大阪に着ければいいという目算で3時に家を出たんだけど、阪神高速で渋滞に合い目算大狂い。
ヒイちゃん、予定の講演会に間に合わず。京都に着いたのが8時過ぎてました。(ヒイちゃんは大阪泊)


その前日の木曜日、塾の授業と授業の休憩時間に思い立って、今西君(http://tabasco.blog.shinobi.jp/Entry/81/)に連絡入れて梅田で会う約束してたけど、それも目算狂いでお流れに。

京都の大山崎インターを下りた時点で、「こりゃ、無理だな」と思い、「今夜の梅田会談はお流れです~」とお詫びのメール入れてた。

西京極の実家に着いて、仏壇の父の前で胡坐をかいてビールを飲みながら、「うーん、そりゃ残念」という返信メールを読む。

今西君と会う予定だったから夕飯も食べず、母にも用意不要と伝えていたから何も食べるものがない実家の夜。冷蔵庫の中のきゅうりの漬物と韓国のりで一人宴会でございました。折しも(なんの?)2011年11月11日のことでござんす。



金、土、日そんな具合で関西を周遊して日常に舞い戻ってまいったタバスコ、これから年末までバタスコ(あるいはタボスコ)でがんばります。

皆さんも20011年の残りのひと月半(きゃ~あとひと月半だって!)を有意義にお過ごし下され。
敬老会、終わりました。やれやれ。ふ~。

ささやかな達成感の中静かな夜を過ごしています。

40年前以上も前に熱狂していたタイガースのね、復活コンサートがこの9月から始まっていまして、私は行きたかった京都でのチケットを入手できず、本日なんとか高松公演(12月2日)のチケットを手に入れることができました。

ここまでにも紆余曲折がありまして、実は先行予約(高松公演の)で抽選に当たっていたのにもかかわらず、当選メールがスパムメールと認識されてゴミ箱に直行してたらしく、知らん間に「あなたの権利は失効」てなことになってたんですよ。敬老会準備に追われる日々に取り紛れてしまったという事情もあり。
ま、しゃあないな。こういう時私はあっさりそのように思う性質です。ま、一般販売で買うたらええわ、田舎のチケットやし取れるやろ、といつもながらに田舎を侮っておったわけです。
その一般販売開始が10月2日午前10時。
タバスコのその時刻は敬老会の正に開会時刻でございましたので、ヒカリに電話購入の手順を示して、「頼んだで」と言い残し、いざ敬老会へ、午前7時30分に家を出ました。(行ってくるぞと勇ましく。白綾たたんで目のつるごとく)

10時、開会式が始まりました。「チケット入手、頼むで、ヒカリ!」と、しかしそれは心の片隅で。
来賓のあいさつが終わるとタバスコが祝電の披露やご祝儀をいただいた方々の名前を読み上げさせてもらいます。
名前の読み方間違えたらあかん、祝電も下読みしとかな、「施策」ってどう読むにゃろ?「せさく」?」「しさく」?(正解はしさくでした。せさくって読んでしもたがな、ま、ええわ) などなど、心の大半は目の前の敬老会進行に注ぐタバスコ、些少といえども血税にて報酬をいただいている身でございますよって。

で、ヒカリに結果はメールで知らせてな、って頼んでいた、そのメールを確認できたのが10時半でした。

「だめでした」やって、ええええええ?!うっそ~~~~、がっかり~~~

そのがっかり感は次第に大きくなる。

こんな田舎のコンサートのチケットくらいとれるやろ、と高をくくっておったのはたしか。その緊張感のなさがせっかくの権利失効を招いたとも言える。

思い返すに悔しさが募る。ああああ、あほあほあほ。


ピーが40年ぶりにファンの前に出て来てくれて、そのことにいたく感動したことの経緯を書いたのは今年の2月のことやったかしらね。
その後、大震災がありました。
日本中のあらゆる価値観が一変したみたいな思いを味わいました。

放射能の恐怖に苛まされもしました。

ヒカリは横浜に入院してたし。

退院して元の木阿弥みたいな生活に戻って、ぐったりして、がっかりして、そんな中でも日々は過ぎ、夏が来て、今年の暑さは去年の猛暑よりはマシやったとタバスコの体はそのように判定しましたが、節電に迫られた関東以北の皆さまは厳しい暑さを耐え忍ぶ夏だったことでしょう。
7月には原田芳雄が死んじゃったよぉ~。
先に死んでもええ奴は他にゴチャマンといるというのに。(命に軽重の差がないとはタバスコは思ってないんです。井上ひさし様の命の重さは、そこら辺の三流政治家の100人分に匹敵すると思てます)

いろいろがっかりしながらも夏休み教室、今年もてんてこ舞いの内に何とか乗り切り、8月の最終週にはやっとこちょっとした夏休み気分でヒカリと小さな旅行をしました。
淡路島の、瀬戸内海を見はるかす丘の上のお花畑を訪れました。ヒカリが高校2年の夏休みにも来たことのある丘でした。
あれから10年。 
難儀な神経症を病むヒカリの、病歴は15年、夏が15回も巡っては去り、したのか。
 
その途上の、10年前の夏休みの旅行で訪れたあの丘にもういっぺん立ってみた今年の夏の旅行でした。
ヒカリが、ひまわり畑の中で、何枚も何枚も写真を撮っているのを、展望台の手すりに乗り出して眺めていました。
 
実はこのあたりからヒカリの調子がわりとよかったんです。
今までも、「ひょっとしたら」と何べんも回復の兆しの希望を見、打ち砕かれの春秋でありました。
だから、わりと調子が良い兆しを、何事でもなく見て見ぬふりしたりするところもありました。
それは音もなく訪れるのかもしれない。そろりとやってきたそれを、そのままにしておく方がいいのかもしれない。

そして9月、臨時雇用ながら就職もしました。
機嫌よく通勤してます。

タバスコは例年のことながら公民館のお手伝いで多忙を極める時期に突入致しました。

9月からいよいよタイガースの復活コンサートツアーが始まり、まだ手にできていないチケットのことが胸をよぎりながらもそのことだけを考えているわけにもいかないうちに日々は流れ、
 
「ほんまに行けるんかいな」
 
「ま、行けへんときはあきらめるしかしゃあないなぁ」
 
タバスコは、このように人生を生きてきた女でしたよ。

たくさんのものをあきらめてあきらめて、気持ちを抑えて抑えて。(ほんまかいな、といま幾人かの方が一斉に異議を唱えられたのが聞こえましたが)

こんなにけなげにつましく生きているタバスコに、ちょっとくらいのうれしいことが起こってもええはずやのに、なんで、9月も11月も(さらに追加公演の1月も!)京都公演のチケット先行予約抽選に当たれへんねんな、と腹立たしくも悲しむものでもありました。

人は不運過ぎると恨みがましくなるもんですね。
ちょっとした幸運でうんと元気にもなれるのに。

ときどき不幸過多の結果犯罪を犯す人がいますが、(たとえば数年前に起きた秋葉原の無差別大量殺傷事件とかね)あの犯人の男の子も、ほんの少しの、ちょっとした幸運であんなことをしなくて済んだのではないかと思ったりしたものです。話逸れましたけど。

えっと、今年はわりとずーっとそんな気分でおりました。
2011年の通奏低音はそうやったんです。私はかわいそすぎるな、もっとええことがあってもええんちゃうんかなぁ、てなちょっとした世間への、恨みとまでは言わないけれど、ヒガミみたいな。
その上タイガースのコンサートがもうどこのコンサートも見られへんてなことになったら、ほんまに世間を恨むで、と思っておりましたことよ。


敬老会を終え、帰宅し、チケット入手に失敗した顛末をヒカリから確認し改めてがっかりし、そのがっかりは刻々大きくなりました。
もう、ぐれてやる~

と、そこへ見知らぬ方からメールが参りまして、「高松のチケットまだとれますよ~」

へ?


SNSのタイガースコミュで「チケットとれへんかったぁ~」と叫んでいたタバスコのそのコメントを見て教えて下さった見ず知らずの方がいらっしゃったんでございます。

へえ、ありがとうございますありがとうございます。
なんとか高松公演のチケット1枚ゲットできました。

あああ、よかった~、救われたぁ。

こんなね、ささやかなことで人生また生きていく力が湧いてくるちゅうもんです。

おい、聞いてんのか、野田(やったっけ?新しい総理大臣)。
日本の国民はほんまにつましくけなげであることよ。
 
 
今日、敬老会の実施報告書を、市の公民館事務局へ提出しに出かけました。
 
ドキドキ・・・
 
実はこの事務局内でヒカリが働いております。
その働く姿を目の端にとどめるだけにして帰ってまいりました。
ちゃんとやってるがな。
 
帰り道、きんもくせいの香りが漂う田舎道を、車の窓を全開にして走っておりました。
 
 
そして、帰り着いてパソコンを開いたら・・・・
 
 
ハハハハハハ、神戸に住むネットの仲間のCさんが、「師匠(☆)!タイガースの高松公演、ご一緒させていただきますぅ」やって。
 
なあんや、チケットまだ余ってるんや~ん。さすが田舎ぁ~
 



ええこともあるやん、生きてたら。
 
 
 
辛いことの多かった2011年でございますが、皆様の下にも、ささやかな幸運の一つ二つ訪れんことを心よりお祈り申し上げます。
 
(☆)Cちゃんはなぜかタバスコを師匠って呼ぶのよ。なんでやねん、年3つしか違わへんのに。しかも、どう見てもあっちの方が師匠やろ!
 

54年生きてくると、一年の長さが54分の1になるということを発見した。

去年一年は53分の1だったから、去年よりもさらに今年は短く感じるんだろうな。

15歳の時の1年は15分の1だからそりゃ大した長さだった。
だから未来には気が遠くなるほど膨大な時間があるものだと思っていた。
1年の長さがどんどん短くなるなんて知らなかった。


これはごく最近知った64歳の人の人生について考えていて気づいたことだったんだけどね。

私が15歳の時、その人は25歳で、その人にとっての25分の5の時間を費やしたはずの5年間の生活を一夜にして捨て去って、まったく別の生活を始め、40年近くの時間を経て、その過去の25分の5時代のことを振り返って語る彼は、64分の5としてのその時代の価値をほぼ正確に、過大にでもなく過少にでもなく彼にとっての64分の5として振り返り語っていたことに感動してしまった。

彼にとっての64年のどの一年もが価値あるものだったという自信が彼の語りに表れていたからだろう。

そういう人生を、素晴らしいと言えるのかもしれないなぁ、なんて思ったのでした。

ザ・タイガースのピーが40年ぶりにメディアに登場、という報に思ったことでした。
 

交差点の赤信号に捕まって、でもそこまで走りづめやったから、ちょっと息をつけるのもええかと立ち止まり、前を見ると先に信号を渡り終えたヒカリが自転車を停めて振り返っている。

自転車で走るヒカリの後ろを私は走って追っかけてたのだ。追っかけていたんじゃなくてついて走っていたというほうが正確。
これ、夢の話だからなるべく正確に再現しようと努めている。
走るのが結構きつい。
「ヒカリ~、早すぎ~」とか言いながら、私が自転車に乗ってヒカリが走ったらええんちゃうん?と最近老化著しい私はやや理不尽さも感じつつそれでも一生懸命走って、信号待ちで止まったときは、ハーハーゼーゼー言っていた。で、両手を膝で支えるようにして息を整え、視線を下に向けると、足元に猫がいた。

それは搗きすぎた鏡餅みたいにでろ~と道に伸び広がってる感じの白猫。ゆぱがいつもこんな感じで床に寝そべっていた。その姿はいつも私に搗きすぎたお餅を思い出させていたので、その時も同じように感じ、ゆぱに似た猫やなァと思ったのだ。
でも、ゆぱのはずがない。ゆぱはもういなくなってから12年も経つし、そのとき既に7歳だったし、もうどんな可能性を想定してもゆぱが生きて戻ってくるということはない。いや、それにしてもゆぱに似てる。毛の汚れ具合とかも。耳の付け根前方部のそりこみみたいに見える、毛の薄くなり方も(ケンカのたびにゆぱはそこを一番やられるらしく度重なるケガでそこが薄くなってたのことよ)。
猫が頭をもたげ私を見、私も見つめ返したら、ゆぱにそっくりだった。
そっくりだけじゃなくてゆぱそのもののような気がして、「ゆぱ?」と声をかけたら、「ふにゃ~」と、その答え方が「そやけど」って言ってる感じだった。
抱き上げたら確かにその重みはゆぱだった。
12年経っても覚えてるゆぱの抱きごこちやった。
ゆぱは目を細めて私に抱かれていた。
実はゆぱは私に抱かれるのはあんまり好きじゃなくときどき「いやぁ~ん」と両手をつっぱらかしたりして私を拒んだりするヤツだったけど、久し振りだからなのかわりと嬉しそうに抱かれている。
のどを撫でて確信した。そこには、いなくなる1週間ほど前に怪我をしてお医者さんに縫ってもらった針金の痕があったのだ。

いなくなって、一番心配したのがこれだった。1週間後に抜糸する筈だったのが、その直前にいなくなって、針金状の糸をつけたままで、傷口が膿んだりしないだろうかとか心配したのだ。その針金の感触を指に感じて、すぐに田尾さんとこ(ゆぱの主治医)連れていかなあかんなぁと思い、ゆぱがほんまに帰ってきたんやということをありありと実感していた。

交差点の向こうのヒカリに「ゆぱ、ゆぱ」と腕の中の猫を指差してゼスチャーで伝えると、ヒカリはわかったようなわからないような薄い反応だった。

ゆぱがいなくなったのは、ヒカリの高校の合格発表の日だった。
中学二年からほとんど学校へ行けなくなっていた子が、「高校では生まれ変わってがんばりたい」と希望を持てるようなことを口にしていた。
合格発表から帰ってきたヒカリが、「ゆぱも心配で見に行って迷子になってるんかな」って言った言葉を思い出す。そうだあの日からいなくなって、結局帰ってこなかったのだ


ゆぱがいなくなってすごくすごく心配したし悲しかったしこわかった(どんな目に遭ってるかと想像すると怖ろしくなった)けど、現実の生活の中にはもっともっと大変な、心配な、悲しい、怖ろしいことがあの頃にはあったような気もする。希望はすぐに打ち砕かれたり、でも、へたってる場合ちゃう、と自分をしかりつけるようにして、そんな現実の中で次第にゆぱのことをあきらめていった。
もっと別のこともたくさんたくさんあきらめていった。

12年も経って、また夢に見て、抱っこしたら温かくて重くて一瞬嬉しくて、目覚めたらがっかりした。

そんなものなのかもしれない、って思った。

こんな短い人生の中で手にできる奇跡なんてないのかもしれない。
誰かのもとには奇跡もなくはないかもしれないけれど、それは本当に稀なことなんだろう。
希望はすぐに打ち砕かれるし、願っても叶わないことだらけだ。

私が私の人生でできることは、あきらめてもほかしてしまわないってことかな。
もうきっと本当に生きてはいないゆぱを繰り返し思い出すこととか。


私が私の人生でできることはそれくらいのことなんだな、なんて思います。
プロフィール
HN:
タバスコ
年齢:
67
性別:
女性
誕生日:
1956/05/26
職業:
兼業主婦
趣味:
広範
自己紹介:
おもろいおばはん
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