偶然耳にした姪の幼いころの声に泣けてきちゃったというものなんですけど、なんで泣けちゃうのか、ネット友だちのウハメラは「わからん」といい、うらないしさんは「わかる」とコメントしてくれていた。
時の流れに泣かされたのかも、とタバスコは書いている。
ものすごい速さで遠く流れ去ってしまう時間の無情に、ふと泣きたくなる。
秋の日の物寂しい雰囲気がそういう感受性を過敏にしてしまうってことなのかな。
ものすごい速さで遠く流れ去ってしまう時間は、「今」をどんどん「昔」にしてしまう。
昨日の日記のレスの展開中に「昔」がいろいろ出てきて、「昔」が私を揺すぶってくるのだ。
「もう頬づえはつかない」という映画をこごみん、うらないし、タバスコがそれぞれ思い出している。
この映画は、女子大生マリコの恋愛にまつわる物語(と、とりあえず無機的に説明してみるとそういうもの)。
マリコには忘れられない恋人ツネオがいるわけ。ええ年をした売れないルポライター。ええ加減な男。
でも、マリコはツネオに惚れていて忘れられない。
ふと知り合った橋本君が押しかけてきて同居を始める。
マリコは橋本君に体は開くが心は開いていない。
橋本君は、ええヤツなんだけどマリコの人生に取ったらただの脇役、ちょっとした通行人程度の扱いなわけ。
マリコはツネオに恋をして、20代の今を恋に翻弄されながら、恋をする若い女特有の自己愛を発散させながら、自己愛ゆえに悲恋もまたマリコのアイデンティティーを支えている風に見える。
というのは、51歳のタバスコが評するもので、あの時代にはマリコの中に自分を認めてマリコと同程度に自分の恋にうっとり泣いたりしていたものだ。
それは昔の話。
タバスコが23歳で恋をして、その恋する男に冷たくされていた昔の話。
23歳のタバスコは、そのちょっと冷たい男をちゃんとものにしちゃうんだよねー。
(それがいま、タバスコにボロカスに言われているダンナなんだから全くホントに哀しいお話だ。ま、それはちょっと置いといて)
テープの中でたどたどしい幼児語を発するまゆかも今は29歳になっている。
恋愛をして結婚した。
恋愛をして、その男を追っかけて宮古島まで行ってしまったのだ。
ところがどっこい、そんな思いで追っかけてまで行った宮古島でまゆかは思いもかけず心変わりをして別の男に惚れてしまう。
ちょっとしたすったもんだの挙句、まゆかはその別の男の方と一昨年結婚した。
たどたどしく「こいびとどうしに戻ってグラスかたづけたァ~♪」なんて歌っている昔のまゆかの声(もちろん処女)を聞いて、30年近い時間の流れの中で、私自身の昔が今の私を少し泣かせたような気もする。
惚れた男と結婚したってどうということはない、という意味ではなく。
いや少しそういう意味でもある。
20代の恋愛なんて本当にどうということもない、と思えなくもない。
あの時代、ただの通行人のように通り過ぎるだけだった私の橋本君もいた。
20代の狭量では見えなかったものがたくさんあったなあと思う。
そして、51才になって。
私がどんだけの生き方が出来ているのか、と思わなくもない。
今私が恋をしたとして、どうということもない恋ではない恋ができるのだろうか、とか。
そして、この「今」もどんどん流れ去って80歳の私が昔を振り返ったとき、今の私のことをどんな風に思い返すのかな、とか。
ま、いろいろそういうことを考えているうちにちょっと泣きたいような気がしてきたわけです。
らーめんちゃんの歌さん(以下らーめんちゃんとします)は、ただいま子育て真っ最中の42歳のお父さんです。
ひろみんという愛妻、長男K平12歳、長女しおりん9歳、次女ミッシー5歳という一家のドタバタをネット上で公開しているらーめんちゃんの日記は、家族愛に満ち溢れた一種ファンタジーと読むファンもいたり、あまりのそのほのぼのさにへそ曲がりの幾人かは、「新種のホラーかいな」などと揶揄する人もいなくはないくらいの、それくらい奇跡的な愛に満ち溢れた家庭を築いておられる、そういうお父さんなわけです。
タバスコはらーめんちゃんを、平成の山上憶良、と密かに評している。(憶良ほどの貧乏ではないが、子育て貧乏ではあるらしい)
らーめんちゃんの、子どもたちに注ぐ愛にあふれた視線に読者は胸が熱くなる。
ひろみんに捧げる愛にはときどき「アホちゃうか」と多くの日本の妻族はひがみたくなる。
さて、らーめんちゃんの長女しおりんが先日9歳のお誕生日を迎えた。
いつもながらに、家族の誰かの誕生日には大騒ぎが繰り広げられるらーめんちゃんち。
しおりんの誕生日ドタバタもちゃんと日記に綴られていた。
それを読んで、タバスコは僭越ながら、お祝いの言葉を申し上げたく思い立ったわけです。
以下、らーめんちゃんに捧げる、「9歳のしおりんに贈ることば」でございます。
しおりん、お誕生日おめでとう。
9歳になったしおりんになにか「贈ることば」を、と思い今日一日過ごしました。
9歳と聞いて、まだ一桁やんけ、と思いました。
私の一桁時代を思い出しました。
9歳のときの思い出。
毎年夏には家族で日本海へ海水浴に行くのが我が家の恒例行事だった。
母の弟妹の家族たちも合流して大団体での海水浴。
福井の敦賀というところ。
私が9歳と言えば、昭和40年のことである。
敦賀の寂びれた漁村の民宿を一軒借り切っての逗留。
なんという名前の村だったのかは覚えていないけれど、子どもの目で見ても寂れた、貧しい漁村だった。
海岸と山に挟まれたその村には数年前までまだ電気が来てなかった、というようなそんな村。(現在そこに原子力発電所ができているのは皮肉な話である)
海岸で従姉妹たちと遊んでいるとその村の子どもたちもときどきやってきて一緒に遊んだ。
その中に九衛門(きゅうえもん)という名前の私と同学年の男の子がいた。
「九衛門!9歳で九衛門!ほんなら、10歳になったら十衛門か。」と9歳の私はそんなことにびっくりするアホな少女であった。
9歳の私は、実はとても微妙な年齢だったのだ。
というのは、8歳の私はとてもおとなしかった。
クラスにいたいじめっ子の平井君にいつも泣かされていたのだ。
7歳の私も6歳も5歳の私も非常におとなしい女の子だったらしい。
らしいというのは、自分で自分をおとなしいとかおてんばとかわからない年齢の自分のことは、周囲の大人が私を評した言葉の断片から推測するしかないから。
で、そのころ私は「どこにいるかわからない子」と言われていたのだ、だ、だ。
多分とっても無口でいたいけな幼女だったのだろう。
7歳のとき私は学校で、給食のときに配られるお茶をこぼして火傷を負う。
でも、おとなしいいたいけな7歳タバスコはそのことを先生に言えなくて、熱さと痛さにただ黙ったままで耐えるキャラクターだったらしい。
隣の男の子が見るに見かねて先生に言いに行ってくれて、やっと治療してもらえた。もうすっかり水ぶくれができていた。この一件から、7歳の私の「どこにいるかわからない子」振りが窺えよう。
5歳の私。
幼稚園の廊下ですれ違いざまにいたずらっ子に三つ編みの髪を引っ張られて泣き出す5歳タバスコ。一緒にいた女の子がその男の子を追いかけて捕まえて仕返しをしてくれた。今なら自分で追っかけていってボコボコにしていることだろうに。
このように、確かに一桁タバスコはおとなしかったわけだ。
ところが9歳はちょっと違う。
3年生の一学期の学級委員をしているのだ。
夏休み前のこと、担任の石川先生(30代もしくは40代前半の女教師)は生徒一人一人に夏休みの目標を与えてくれたんだけど、私の前の席の菱田さんには「勉強しないで遊びなさい」と言ったのだ。タバスコには「算数ドリルをしっかりするように」である。
菱田さんは確か二学期の学級委員だった。勉強の良くできる菱田さんを押しのけて一学期の学級委員をしているということは、勉強ではない部分で目立っていたってことである。
そして、二桁に突入したタバスコは明らかにおとなしくはなかった。
10歳になる直前、4年生の4月に転校したタバスコは、転校生であるにもかかわらず、4年生の三学期(5月生まれのタバスコはこのときには10歳になっている)に学級委員になっているのだ。しかも、勉強は大してできない転校生であるのに、である。
そして、11歳、12歳、地球は私を中心に回っている、と思い上がるタバスコ人生のハイライト期に突入するのである。
9歳に何があったのだろうか。
よくわからない。
何があったんや。
9歳とはこのように謎に満ちた時期なのである。
しおりんにとってのこの1年がどのようなものになるのか、らーめんちゃんとはまた違った興味でタバスコおばちゃんは、君の1年を注視しようと思う。
らーめんちゃん、定期的にしおりんの9歳レポートよろしくお願いいたします。
らーめんちゃんはもう既にお気づきかと思いますが、しおりんに贈ることばには全くなっていないのであった。
私もヒカリが好き。
誰かに好いてもらうのは、一番の幸福。
好きな人に好いてもらうのは、人生の最大の幸福ちゃうかしら。
私は、人生のたった一度の妊娠でヒカリを産んで本当に幸福なお母さんになれた。
ま、もちろんこの一行だけで言えない苦労話もヒカリと私にはあるんだけれど、世の中に幾万の母と娘がいて、お互いを「好き好き」と思い合える母娘ランキングがあったら、多分上位に入れるはずだ。
と、こういう楽天的なことを書くと、ヒカリは、だからと言ってそれが素晴らしいことかどうかはまた別の話やけどな、って言うだろうけど。
そうなんだ。
ヒカリはお母さんが好きだもんだから、お母さんと過ごす時間が一番楽しいとか言うて、外へ目を向けない傾向がある。
恋人欲しいと言いつつ、お母さんみたいな恋人が欲しいなんてわけのわからんことを言う。
お母さんみたいに、自分のことを理解し、愛し、許す人を彼女は欲しがってしまう。
そうは行かない。
ときには理解しあえない苦しさもまた恋の醍醐味かもしれない。
長谷川真理子さんの「オスとメス・性の不思議」にも書いてあったんだけれど、なぜ生物にはオスとメスが存在するのか。実は繁殖に必須なものではない。単体で子孫を増やすことのできる生物はいるのである。ではなぜオスとメスが必要だったかといえば、生物界の生存競争の過程の中で、病原菌などに抗していける強さを獲得するためには他者と交わり、交わった結果の新たな遺伝子が必要だったから、ということらしい。
ヒカリは思春期に心のバランスを崩して、他者との交わりをまったく遮断してしまった時期がある。
思春期に本来持っておくべき他者との葛藤を彼女は回避してしまっている。
心のバランスを崩した娘を私は懐に抱え込んで保護した。そのときは、そうするしかないと思ったし、あのときの自分のやり方が間違っていたとは思っていない。
生殖において、より強い子孫を残すための方法としてオスとメスが交わらねばならなかったように、やはり他者と交わることによって獲得すべき強さは、人が成長する上でも欠かせないものなのだろう。ヒカリにはこれが欠けている。
そもそもヒカリを見ていると、私という生物が単体で、純粋培養して自分のコピーを作るようにして増殖させたようなところがある。子育ての過程でも自分の懐に抱え込んで、他者の介入を阻止してしまったようなところがあるのだ。
我が家において父親の存在は、子育ての過程でまったく薄かった。それは夫の責任でもあり私の責任でもある。そして何よりもこのことが思春期にヒカリの情緒を不安定にしてしまった主たる原因ではないかと思っている。
ヒカリは、24歳で今やっと他者の海へ漕ぎ出そうとしている。
18歳で一人暮らしを始めたとはいえ、この6年間は、実質的には彼女はまだまだ他者を回避し続けていた。学生という身分に負ってそれが許されていた。そのためにこの母は必死で彼女の援助に当たっていたところもある。
入社した会社の都合で、配属先は名古屋になった。
神戸(大学は神戸だった)だったら、この母はまだまだ援助に赤目を吊って駆けつけているかもしれない。
高松(大学院は高松だった)だったら毎週実家に帰って来てたかもね。
ところが、名古屋。
そうそう簡単に、毎週出かけていける距離ではない。
ヒカリは否応なく他者と交わらねばならないところに身を置くことになったのだ。
いつもいつも心地よく自分を懐に抱え込んでくれるお母さんを常備できないところ。
これを天の配剤と思いたい。
否応なく他者と交わらねばならない場所で、どうか幸福な交わりを持って欲しい。
お母さんとは違う方法でヒカリを愛し、ヒカリを許す人が現れるでしょう。
その人を理解できないと苦しむことがあって良いと思うし。
誰かを好きになってその人に好いてもらえる幸福を、お母さんを相手ではなく手に入れて欲しい。
ま、お母さんのことは心配せんでもええから。
二番目に好きな人でええから。
よその日記のレスを書いていて思い出したことなんだけど。 |