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今朝新聞の一面に「福田総理退任」の大活字。

「タバスコさんに叱られて福田さん辞めちゃいましたね」とmixiではささやかれている。

実は昨日私は福田さんを叱り飛ばしていたのだった。



mixiに書いた日記


伊藤和也さんの葬儀に福田は行くべき。

行ったんやろか?


世界中で、あらゆる危険な場所で高い志を持って地味に働く日本人が、日本国にもたらしてくれる恩恵は計り知れないと思う。

もちろん彼らは日本国のためなどとは思っていないだろう。
ひょっとしたらそれはただの自己満足かもしれない。そんな風に揶揄する人間もいるかもしれない。(ちなみに私はそういう揶揄の仕方をする人間が大きらい)

あなたに(私に)伊藤さんの真似ができるだろうか。

彼はきっと安穏な場所にいて、世界のどこかで血を流したり、貧困に苦しんだりする人たちの痛みを想像して、安穏な場所にい続ける苦痛にたえかねたのだろうと思う。自分以外の人間の苦痛を想像できる人間を私はもうそれだけで尊敬してしまう。
もちろん誰にも他者の痛みを痛む能力はあるだろうけれどその能力は個人差がかなり大きい。あるいは他人の痛みが喜びであったりする人間もいる(らしい)。
そんなことを考えたとき、伊藤さんは人として敬われるべき人であると思う。私たちは彼を敬い彼の死を悼まなければならないと思う。

それは何を意味するかといえば、世界中のあらゆる場所でこの時刻、危険を顧みず地味に働き続ける人たちを敬うために。その人たちに感謝するために。その人たちを励ますために。


日本国の首相たるべき福田は何を置いても、何に先んじても伊藤さんの葬儀に駆けつけ、私たちの表すべき弔意を代弁すべきだと思う。

もし行ってなかったら、私は福田を軽蔑する。



ま、それどこらやなかったご様子。
お気の毒です。

ひどいこと言って、責任を感じます。

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NHKの「にっぽんの現場」(3月13日放送)
***************





「にっぽんの現場」は見逃すことも多いのだけれど、見るといつも深く心が揺すぶられる。

夕べの放送では、定時制高校のあるクラスの風景を追っていた。

定時制高校の入学者が増えているらしい。
新聞のラテ欄の短い情報だけを読んで、ダンナと「なんでやろね」と話していた。
私は、「不登校の子どもたちが行くのかなぁ。」と思った。

さまざまな事情で学校へ行けなるなる子どもたちは多い。その子どもたちは、別の場所での就学を試みる。例えば単位制の高校だったり。

私の友人にも子どもが不登校になった人が複数いるけれど、それぞれにその子どもが行けるであろう学校を探してなんとか高校卒業の資格取得を目指す。

そういう役目の一端を定時制高校がになっているのか、とまず私は思ったわけです。

なぜならフリースクールなどは、費用が結構かかったりする。
経済的事情でそういうところに行けない子どもたちの行き場所に定時制高校がなっているのではないだろうかというのが私の予想でした。


事情は少し違っていた。
公立高校の入試に落ちて、以前ならば滑り止めに私立を受けていたであろう子どもたちの、私立へ行く経済的余裕がない家庭の子どもたちが今定時制高校へ入学するという傾向が強まっているのだという。

格差社会の、ますますその格差が広がりつつあるという現実がそこに現れているのだろう。

定時制高校で学ぶ生徒の多くが、父親の失業や家庭の収入の激減に直面し図らずも定時制高校で学ぶことになったという事情を抱えていた。

昼間はアルバイトをし、学費はもちろん生活費も家に入れているという多くの高校生たちがそこにいた。

考えさせられることがいっぱいあった。

例えば、自分の努力ではどうにもならない環境があり、その中で、彼らなりに抱いている夢があり、その夢の実現に向けて努力をするということについて。


少し前に、山田太一さんが「あきらめることも必要」という発言をされたことについて、2ちゃんねるなどではその発言が物議をかもしたそうだ。


教師を目指している一人の女の子は、親には大学の学費を出せる経済力がないという環境の中で、アルバイトと勉学に努力を尽くす。
無理がたたって椎間板ヘルニアを発症したりもする。でもあきらめない。
アルバイトで貯めたお金は100万円に近づき、大学合格も掴む。

イラストレーターを目指している女の子がいる(この子美人だったなぁ)。
本当は専門学校に行きたい。でも無理とあきらめている。
親にそういう経済力がないことを当たり前のように受け入れ、そしてあきらめている。
目を吊り上げて努力しようという姿勢はなく「バイトしながら絵は描き続けます」と答えていた。

どこに正解があるわけではない。

たくさんのあきらめの中から掬い取るようにしてあきらめない気持ちが掴めるということもあるのではないだろうか。


ただ、親の経済力という、高校生にとってはどうにもならない現実の前で自暴自棄になっていく子どもがいるとしたらそれは哀しい。
経済的な格差が広がって良いことなど誰にとってもないと思うのだけれど。 





という日記をmixiに書いていたら、翠嵐高校の生徒会長君のコメントをいただいた。

続いてMちゃんという女の子からも。

Mちゃんはこの放送の中で中心的に語られていたイラストレーター志望の女の子で、日記中に私が「美人!」と書いている子。
「イラストレーターって言うより本当は漫画家志望です」って。

二人とも、番組を見てくれて、暖かい励ましありがとうございます、というコメントをわざわざくれたわけです。
Mちゃんは、私の日記にうれしくって泣きそうになったとまで書いてました。
私なんざ通りすがりのおばちゃんに過ぎないけど、おばちゃんの方こそ励まされたわけです。

そして、Mちゃんへのレスにはこんなことを書きました。


へええ、Mちゃんって、番組中にイラストを描いてた子?
小説も(そんなおおげさなもんじゃないと照れながら)書いてるって言ってた、おばちゃんの目にはすごく美人!って映った子?

まあ、それはご訪問ありがとう。

小説を書いてみたいと思う人間の中で絵が描ける人は今は漫画家を志望するって聞いたことがあります。
吉本ばななももし絵が描けたら漫画家になっていただろうと。

絵が描けないから吉本ばななは仕方なく小説を書いているらしい。

ほんまかどうかわからないけど、漫画の世界は今それほど才能のある人が集う場所だという意味だと思います。

絵心と文才と美貌と、ひょっとしたらMちゃんの手の中にはこの3つが握られているのかもしれない。少なくとも可能性はあるんだ。

18歳で、何物も手に中にあるとは思えない空虚感で彷徨ってる子も多いと思う。

18歳で何物も手の中にないことの空虚感が自分を育てるということもある。

18歳では何も決められない。
でも可能性は無限に近くあると信じられる貴重な瞬間であることはまちがいないんでしょう。

Mちゃんにとってもこの春は特別な季節なのでしょうね。

旅立ちに心からエールを送ります。

(あなた、本当に美人だと思った。高校生でメイクしてそこそこかわいいという子はゴマンといるかもしれないけど、すっぴんで美人と思わせられる子は稀。これ率直なおばちゃんの感想。ま、美貌がどれほどの価値があるかどうかは、あなたの生き方の中で決まることだと思いますけどね。とにかく幸多い人生でありますように!) 



テレビを見て、深く心揺すぶられ、それをネットの片隅でちょこっと語ったらこんな交流が生まれました。

ネットも捨てたもんじゃねーと思いました。

さっき読んでいた本(角田光代著「ドラママチ」)の中に、8000円もする勝負パンツを買う女が登場した!

5000円の勝負パンツに度肝を抜かれたタバスコであったが、井の中の蛙であった。

しかもこの女は、そのパンツとおそろいのブラジャーを19000円たらでセットで買ったのだ。

度肝を抜かれるとはこういうことだっ。
まったく恐れ入った。

しかもこの女は、この勝負パンツ&ブラを見せる相手がいないときたもんだ。

買ったその日に風呂場の脱衣場で着用して、自らの姿を「間抜けな感じ」と評している。
女から見たら間抜けな感じでも男は欲情するのかなぁなどと一人思う女。

ここで素朴な疑問なんですけどね。
勝負パンツというのは、男を欲情させるものなんざんしょうか。

ちなみに8000円のその勝負パンツは股の部分がレースになっていて、陰毛が透けて見えるらしいです。
ブラジャーは乳頭部がレースで、それも透けて見えるらしい。

そんな、いかにも安直に「欲情してちょうだい」といわんばかりのパンツに、一般的な男は欲情するもんなんざんしょうか。

欲情してちょうだい光線を発するパンツを穿く女に男は欲情するもんなんざんしょうか。


あるいは、男が欲情したとして、欲情してちょうだい光線を発するパンツごときに簡単に欲情する男を女は受け入れられるんだろうか。

あるいは欲情してちょうだい光線を発するパンツを穿く女に欲情する男の欲情を女は受け入れられるんだろうか。



疑問は尽きないのであった。


ちなみに本日の日記のカテゴリーは社会正義ネタである。
>
月に一度の「痛快・おんな組」 (CS朝日ニュースター)
今回のテーマは、「おんなと死刑」だった。
テーマに「おんな」が付いているのはこの番組の慣例で、女と死刑の関係がテーマというわけではなく、つまり、死刑制度を考える女たちという程度の意味です。

私の大切なネット友だちのテレビっ子さんは明確な死刑廃止論者だった。 
テレちゃんに問題提起されたとき私は、あまりちゃんと答えられなかった。テレちゃんはさぞかしがっかりしたことだろう。

宿題はまだ手つかずのまま・・・

そして、いまだに死刑という刑罰の存廃については、私は自分の考えをはっきり持てていない。
賛否両論の表面的なところだけを耳に挟む程度で、なんとなく気分的に廃止された方がいいんじゃないのかぁ、なんとなく・・・と思いながら、一方で、もし自分の愛する人が殺されたら、その殺した人間は生かしちゃいないぞ、と考えてしまう私は死刑制度存続支持派といえるんじゃないだろうかと思ったり・・・

いつか、ちゃんと考えてみなければならないことだという意識はありました。
だから今回の番組は真剣に見た。2回見ました。
2回見たけど、死刑の存廃についてまだ明確に自分の中で答えは定まらない。
定まらないけれど、とても大事なことを教えられた。

それは中山千夏という女性の語ることばによって。

殺された人の家族が、犯人憎し、極刑で罰せよと願う感情はわからないでもない、しかし、第三者がその遺族の感情に同調して(あるいは同情して)、「そんな悪人は殺してしまえ!」と言い立てて、本当にそれで良いのだろうか。
あるいは、また遺族にとっても、犯人を殺したいほど憎み、だから死刑にしてくれ、と願う感情を、それが当たり前のことだという次元で留め置いて本当にそれでいいのだろうか。
それが、遺族の究極の救済になるのだろうか。

と彼女は問いかけてくる。

人が人を殺すということを止めたい。
戦争は、国家が国民に人を殺せと命令するものである。戦争を本当になくすためにも、人が人を殺すことを根本的に否定し続ける必要があるのではないか。死刑を否定することもその潮流を作る流れに他ならないという彼女の意見は、私をはっとさせた。
憎しみがどんなに深くても殺すこと、殺したいと思うことを否定し続けたいと、彼女は願っている人である、と解釈しました。
それは、人の感情を否定していることではなく、そういう感情を乗り越える知恵を人は持っているはずだ、ということばにも感銘を受けた。

たとえば、私などは、万が一ヒカリが殺されたりしたら、殺した人間を殺したいと思う。すぐに殺しに出かけるかもしれない。そうでもしなきゃ、愛する娘を殺された感情が収まりきらないだろう。
だけど、殺したところで収まるわけではないのだ。
犯人を死刑にしてもらったって収まるものではない。だけどどうしたって収まりきらない感情のままに、とにかく犯人には死んでもらいたい、極刑で裁いてもらいたい・・・というのが被害者遺族の感情であろうけれど、その感情を、犯人を死刑にすることではないもっと別の方法で、犯人を殺しても収まりきらない感情の収まりどころを探るというのも人間の知恵なのではないだろうか・・・

ずっと以前にラジオであるお父さんの話を聞いたことがある。
大学に入学して間もないその男性の長男が、新歓コンパで一気飲みを強要され、急性アルコール中毒で亡くなった。その父親はこれからの自分の人生を、一気飲みを強要させないための運動に捧げたい、と語っていた。

殺人事件じゃないじゃないか、それはまた別の話だろう、とあなたは思いますか?

子どもを失った親の気持ちとしては、それは殺人と大差ない苦痛であり、加害者に対しての憎しみもそんなに大きな差があるとは思えない。この父親には、一気飲みに関わった先輩学生の罪を追求したり憎み続けるという選択だってあったと思う。けれど、彼はそうはしなかった。
そこには、自分の感情と向き合う苦悩もあっただろうと思う。そして、最終的にはそのお父さん自身の救済が目的だったと思うのです。

最初にラジオでその話しを聞いたとき、まだ世の中には一気飲みの被害はそんなに一般的に知られてはいなかった。
聞いている私は、「砂漠にスプーンで水をまくような話だなあ」と思ったことを覚えている。でも、それから徐々に世間の一気飲みへの認知が少しずつ変わっていったように思います。もちろんそのお父さん一人の力ではなかっただろうけれど、新聞などでその後も何度かそのお父さんの名前を目にしました。
ああ、がんばってはるんやなァとそのたび思いました。そのお父さんは、加害者を憎み続ける人生より、結果的に救われたのではないだろうか、と思いました。
アメリカで、間違って射殺された学生のお母さんが、銃を無くす運動を始められたという話もありましたよね。

人間にはこういう知恵が備わっているのか、と私はこういう話を聞くと感銘してしまう。 


千夏ちゃんはこういう話をしてくれた。
弟を殺された男性が、その犯人の死刑は望まない代わりにその犯人に徹底的に「何故弟を殺したのか」ということを考え続けてほしいと望んだ、と。すると周囲の心ない人間から、犯人の死刑を望まないなんて、本当には弟を愛していなかったんだろうという中傷を受けたというのだ。
身内が殺されたら、その犯人を殺したいと思うのが普通だろうと世間は思い、普通じゃない感情をそのように侮蔑する人間もいる。

凶悪犯罪の被害者に深く同情し、その犯人を憎むことに何の疑いをもつ必要があるだろうか、と多くの人は思うだろう。私もそうだ。特に子どもが殺された事件を見ると、親の苦痛を想像して犯人は殺されるべきだと思う。

だけど、そう思う私たちの、普通だと思っている気持ちを、本当にそれでいいのか、と呼び止める声、それが死刑制度廃止を唱えている人たちの論旨なのかもしれない。

日本では(日本に限らずだけれど)、長く長く女性の人権が軽んじられる時代が続いていた。
男女差別に限らず、人間には尊卑があるという考え方はほんの100年前までの日本なら普通の考え方だったのではないだろうか。

少なくとも現在、人間はすべて平等だと考えられている。
人は等しくその人権は尊重されるべきだと、私たちは教えられている。
人間がお互いの人権を尊重しあおうという考え方は、長い人間の歴史の中で人間が知恵として獲得した考え方ではないだろうか。

殺されてもいい人間はただの一人もいない、という考え方を私たちはこれから獲得していくべきではないのか。

これが死刑制度廃止を訴える人たち(全員かどうかはまだ私にはわからないけれど、少なくともその運動に関わっている中山千夏氏)の、その主張の根拠はそこにあると私は見ました。

殺されてもいい人間はただの一人もいない。

人を殺した人間は、間違ったことをしたのは確かだけれど、その人間もまた殺してはならない。 

この決心は、厳しいものだと思う。 

私はまだその厳しさに耐え切れない。ヒカリが殺されたら、やっぱりその犯人を殺したい。でも、殺しちゃいけないんだ、と思わなくてはならない。
ブッシュも、金正日も殺しちゃいけない。

それがこれから人間が獲得すべき次代の知恵なのかもしれないから。

その知恵が全人類に行き渡った時、殺人も戦争もなくなるはずだと、それを信じる人たちが、私たちに訴えかけてきているのだと思いました。


私もそれを信じたい、と思う人間だけれど・・・
まだ気持ちが定まらない。
プロフィール
HN:
タバスコ
年齢:
61
性別:
女性
誕生日:
1956/05/26
職業:
兼業主婦
趣味:
広範
自己紹介:
おもろいおばはん
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