だけど人間は甘い
ヒカリはお母さんが大好きらしい。
私もヒカリが好き。
誰かに好いてもらうのは、一番の幸福。
好きな人に好いてもらうのは、人生の最大の幸福ちゃうかしら。
私は、人生のたった一度の妊娠でヒカリを産んで本当に幸福なお母さんになれた。
ま、もちろんこの一行だけで言えない苦労話もヒカリと私にはあるんだけれど、世の中に幾万の母と娘がいて、お互いを「好き好き」と思い合える母娘ランキングがあったら、多分上位に入れるはずだ。
と、こういう楽天的なことを書くと、ヒカリは、だからと言ってそれが素晴らしいことかどうかはまた別の話やけどな、って言うだろうけど。
そうなんだ。
ヒカリはお母さんが好きだもんだから、お母さんと過ごす時間が一番楽しいとか言うて、外へ目を向けない傾向がある。
恋人欲しいと言いつつ、お母さんみたいな恋人が欲しいなんてわけのわからんことを言う。
お母さんみたいに、自分のことを理解し、愛し、許す人を彼女は欲しがってしまう。
そうは行かない。
ときには理解しあえない苦しさもまた恋の醍醐味かもしれない。
長谷川真理子さんの「オスとメス・性の不思議」にも書いてあったんだけれど、なぜ生物にはオスとメスが存在するのか。実は繁殖に必須なものではない。単体で子孫を増やすことのできる生物はいるのである。ではなぜオスとメスが必要だったかといえば、生物界の生存競争の過程の中で、病原菌などに抗していける強さを獲得するためには他者と交わり、交わった結果の新たな遺伝子が必要だったから、ということらしい。
ヒカリは思春期に心のバランスを崩して、他者との交わりをまったく遮断してしまった時期がある。
思春期に本来持っておくべき他者との葛藤を彼女は回避してしまっている。
心のバランスを崩した娘を私は懐に抱え込んで保護した。そのときは、そうするしかないと思ったし、あのときの自分のやり方が間違っていたとは思っていない。
生殖において、より強い子孫を残すための方法としてオスとメスが交わらねばならなかったように、やはり他者と交わることによって獲得すべき強さは、人が成長する上でも欠かせないものなのだろう。ヒカリにはこれが欠けている。
そもそもヒカリを見ていると、私という生物が単体で、純粋培養して自分のコピーを作るようにして増殖させたようなところがある。子育ての過程でも自分の懐に抱え込んで、他者の介入を阻止してしまったようなところがあるのだ。
我が家において父親の存在は、子育ての過程でまったく薄かった。それは夫の責任でもあり私の責任でもある。そして何よりもこのことが思春期にヒカリの情緒を不安定にしてしまった主たる原因ではないかと思っている。
ヒカリは、24歳で今やっと他者の海へ漕ぎ出そうとしている。
18歳で一人暮らしを始めたとはいえ、この6年間は、実質的には彼女はまだまだ他者を回避し続けていた。学生という身分に負ってそれが許されていた。そのためにこの母は必死で彼女の援助に当たっていたところもある。
入社した会社の都合で、配属先は名古屋になった。
神戸(大学は神戸だった)だったら、この母はまだまだ援助に赤目を吊って駆けつけているかもしれない。
高松(大学院は高松だった)だったら毎週実家に帰って来てたかもね。
ところが、名古屋。
そうそう簡単に、毎週出かけていける距離ではない。
ヒカリは否応なく他者と交わらねばならないところに身を置くことになったのだ。
いつもいつも心地よく自分を懐に抱え込んでくれるお母さんを常備できないところ。
これを天の配剤と思いたい。
否応なく他者と交わらねばならない場所で、どうか幸福な交わりを持って欲しい。
お母さんとは違う方法でヒカリを愛し、ヒカリを許す人が現れるでしょう。
その人を理解できないと苦しむことがあって良いと思うし。
誰かを好きになってその人に好いてもらえる幸福を、お母さんを相手ではなく手に入れて欲しい。
ま、お母さんのことは心配せんでもええから。
二番目に好きな人でええから。
私もヒカリが好き。
誰かに好いてもらうのは、一番の幸福。
好きな人に好いてもらうのは、人生の最大の幸福ちゃうかしら。
私は、人生のたった一度の妊娠でヒカリを産んで本当に幸福なお母さんになれた。
ま、もちろんこの一行だけで言えない苦労話もヒカリと私にはあるんだけれど、世の中に幾万の母と娘がいて、お互いを「好き好き」と思い合える母娘ランキングがあったら、多分上位に入れるはずだ。
と、こういう楽天的なことを書くと、ヒカリは、だからと言ってそれが素晴らしいことかどうかはまた別の話やけどな、って言うだろうけど。
そうなんだ。
ヒカリはお母さんが好きだもんだから、お母さんと過ごす時間が一番楽しいとか言うて、外へ目を向けない傾向がある。
恋人欲しいと言いつつ、お母さんみたいな恋人が欲しいなんてわけのわからんことを言う。
お母さんみたいに、自分のことを理解し、愛し、許す人を彼女は欲しがってしまう。
そうは行かない。
ときには理解しあえない苦しさもまた恋の醍醐味かもしれない。
長谷川真理子さんの「オスとメス・性の不思議」にも書いてあったんだけれど、なぜ生物にはオスとメスが存在するのか。実は繁殖に必須なものではない。単体で子孫を増やすことのできる生物はいるのである。ではなぜオスとメスが必要だったかといえば、生物界の生存競争の過程の中で、病原菌などに抗していける強さを獲得するためには他者と交わり、交わった結果の新たな遺伝子が必要だったから、ということらしい。
ヒカリは思春期に心のバランスを崩して、他者との交わりをまったく遮断してしまった時期がある。
思春期に本来持っておくべき他者との葛藤を彼女は回避してしまっている。
心のバランスを崩した娘を私は懐に抱え込んで保護した。そのときは、そうするしかないと思ったし、あのときの自分のやり方が間違っていたとは思っていない。
生殖において、より強い子孫を残すための方法としてオスとメスが交わらねばならなかったように、やはり他者と交わることによって獲得すべき強さは、人が成長する上でも欠かせないものなのだろう。ヒカリにはこれが欠けている。
そもそもヒカリを見ていると、私という生物が単体で、純粋培養して自分のコピーを作るようにして増殖させたようなところがある。子育ての過程でも自分の懐に抱え込んで、他者の介入を阻止してしまったようなところがあるのだ。
我が家において父親の存在は、子育ての過程でまったく薄かった。それは夫の責任でもあり私の責任でもある。そして何よりもこのことが思春期にヒカリの情緒を不安定にしてしまった主たる原因ではないかと思っている。
ヒカリは、24歳で今やっと他者の海へ漕ぎ出そうとしている。
18歳で一人暮らしを始めたとはいえ、この6年間は、実質的には彼女はまだまだ他者を回避し続けていた。学生という身分に負ってそれが許されていた。そのためにこの母は必死で彼女の援助に当たっていたところもある。
入社した会社の都合で、配属先は名古屋になった。
神戸(大学は神戸だった)だったら、この母はまだまだ援助に赤目を吊って駆けつけているかもしれない。
高松(大学院は高松だった)だったら毎週実家に帰って来てたかもね。
ところが、名古屋。
そうそう簡単に、毎週出かけていける距離ではない。
ヒカリは否応なく他者と交わらねばならないところに身を置くことになったのだ。
いつもいつも心地よく自分を懐に抱え込んでくれるお母さんを常備できないところ。
これを天の配剤と思いたい。
否応なく他者と交わらねばならない場所で、どうか幸福な交わりを持って欲しい。
お母さんとは違う方法でヒカリを愛し、ヒカリを許す人が現れるでしょう。
その人を理解できないと苦しむことがあって良いと思うし。
誰かを好きになってその人に好いてもらえる幸福を、お母さんを相手ではなく手に入れて欲しい。
ま、お母さんのことは心配せんでもええから。
二番目に好きな人でええから。
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