だけど人間は甘い
本日は、おばあちゃんの検査に付き合って一日病院で過ごしてました。
県都の大学病院なので、往復だけでも3時間を要する。
しかも、今日の検査は午前と午後に分かれているので一日仕事になる覚悟で出かけていました。
覚悟というのは、病院での待ち時間をどのように過ごすか、その手段を講じて、必要なものを用意してという覚悟です。
まずは敬老会の事業報告のための書類を書ければ書こうと思って書類、資料一式を持参。
ノートパソコン持参(隙あらば作家ごっこをしちゃろ)。
それでもまだ間がもたなかった場合のために適当に本を鞄に放り込む。
おばあちゃんが検査室に入るまでの待ち時間に、まず本を取り出してみた。何を放り込んできたのやら判然としない。
分厚い本やがな。
読み始める。
まず、開いてみる。
扉のページに
「平和と民主主義。その理想を決して見失わなかった
ハワード・B・ションバーガーに
と書かれてあった。
次をめくる。
日本の読者へ
と書いてあって、著者(ジョン・ダワー)が本書を著すにいたった経緯や本書の意味や、その意味に込めた思い、特に日本の読者を照準にした思い語っている。
お、おもしろい。(いわば前書きのようなものなのだろうけれど、これだけでもおもしろい)
タイトルは(やっとタイトルにたどり着く)
敗北を抱きしめて(上)
第二次世界大戦後の、戦敗国としての日本の戦後を再検証するノンフィクションととらえていいのかな。
次に本書を著すに当たって協力、尽力、助力してくれた多数の人への謝辞がつづいて(これもおもしろい)、目次があって、「序」にたどり着く。
ここまででかなりおもしろい。
この本は、おもしろい本だということがはっきりとわかった。
確証的に私がそう判断したその根拠は、ここにある。
「大学生のころ、そして大学院に入ったころにも、私は文学や文化の勉強にほとんどの時間を費やしていた(もともと、私は森鴎外について博士論文を書くつもりであった)。「社会科学」の分野だけを専攻し、きっちりと訓練を受けた研究者と違って、われわれの生活のいたるところに浸透している「あいまいさ」に私が興味を持っているのは、こうした経歴があるからである。私は言葉の微妙な意味あいとか「象徴的」な言葉の使い方に敏感で、ものごとを数量化しすぎることには懐疑的であった。夢や希望、そして憎悪や貪欲もまた、理解に値する人間性の一部分だと思っていた。」(「日本の読者へ」の中から)
こういう書物にありがちな、ものごとを数量化してわかりやすくする手法がちりばめられているはずだと、そういえば私は勝手に思い込んでいたところがあったな、と思い出した。
この本は、ヒカリが大学生のときの、授業に必要があるということで強制的に購入させられたものだった。
上下併せて5000円くらいもする、貧乏タバスコ家にとっては通常は絶対購入しないような(図書館を使って手にするような)ご本であったのだ。
だから、ヒカリが持ち帰った荷物の中からこの本を発見したときも「もったいないからいつか読もう」という動機で取り置かれたご本であったのだ。
もったいないから、という理由ではなかなか積極的には手にできなかった。加えて、タバスコは浅薄かつ貧弱な読書体験から、この類の本は、こういう傾向があるだろうと、浅薄に判断して貧弱な想像力を働かせてしまうところがあった。
そういう先入観があって読み始めてみたら、「ものごとを数量化しすぎることには懐疑的であった。」とジョン・ダワー氏は、タバスコに囁きかけてきたのである。
まさに、「さよか」である。
「言葉の微妙な意味あいとか『象徴的』な言葉の使い方に敏感」な氏の著すノンフィクションがおもしろくないわけない。
テーマそのものには特に惹かれたわけではなかったのだけれど、読み始めたら、すぐに惹きこまれてしまった。
「言葉の微妙な意味あいとか「象徴的」な言葉の使い方に敏感」な人の文章を味わい尽くしたいという思いからゆっくりとしか読み進めない。
一字一句を正確に理解したい。
今後もおばあちゃんに付き合って病院の待ち時間はたくさん用意されているような予感がする。
まさに、読書の秋に、いいめぐり会いができた本日のタバスコ。
今日の日記のタイトルはですね。
おばあちゃんが検査室に入っている時間(一時間くらいと言われた)に、病院敷地内にあるスタバの、屋外テーブルで読書タイムを享受したタバスコの周辺に、金木犀の香が漂い来てたわけです。
金木犀の香に抱きしめられて、敗北を抱きしめざるを得なかった戦後の日本人の記録を読み進んでいたわけざんす。
県都の大学病院なので、往復だけでも3時間を要する。
しかも、今日の検査は午前と午後に分かれているので一日仕事になる覚悟で出かけていました。
覚悟というのは、病院での待ち時間をどのように過ごすか、その手段を講じて、必要なものを用意してという覚悟です。
まずは敬老会の事業報告のための書類を書ければ書こうと思って書類、資料一式を持参。
ノートパソコン持参(隙あらば作家ごっこをしちゃろ)。
それでもまだ間がもたなかった場合のために適当に本を鞄に放り込む。
おばあちゃんが検査室に入るまでの待ち時間に、まず本を取り出してみた。何を放り込んできたのやら判然としない。
分厚い本やがな。
読み始める。
まず、開いてみる。
扉のページに
「平和と民主主義。その理想を決して見失わなかった
ハワード・B・ションバーガーに
と書かれてあった。
次をめくる。
日本の読者へ
と書いてあって、著者(ジョン・ダワー)が本書を著すにいたった経緯や本書の意味や、その意味に込めた思い、特に日本の読者を照準にした思い語っている。
お、おもしろい。(いわば前書きのようなものなのだろうけれど、これだけでもおもしろい)
タイトルは(やっとタイトルにたどり着く)
敗北を抱きしめて(上)
第二次世界大戦後の、戦敗国としての日本の戦後を再検証するノンフィクションととらえていいのかな。
次に本書を著すに当たって協力、尽力、助力してくれた多数の人への謝辞がつづいて(これもおもしろい)、目次があって、「序」にたどり着く。
ここまででかなりおもしろい。
この本は、おもしろい本だということがはっきりとわかった。
確証的に私がそう判断したその根拠は、ここにある。
「大学生のころ、そして大学院に入ったころにも、私は文学や文化の勉強にほとんどの時間を費やしていた(もともと、私は森鴎外について博士論文を書くつもりであった)。「社会科学」の分野だけを専攻し、きっちりと訓練を受けた研究者と違って、われわれの生活のいたるところに浸透している「あいまいさ」に私が興味を持っているのは、こうした経歴があるからである。私は言葉の微妙な意味あいとか「象徴的」な言葉の使い方に敏感で、ものごとを数量化しすぎることには懐疑的であった。夢や希望、そして憎悪や貪欲もまた、理解に値する人間性の一部分だと思っていた。」(「日本の読者へ」の中から)
こういう書物にありがちな、ものごとを数量化してわかりやすくする手法がちりばめられているはずだと、そういえば私は勝手に思い込んでいたところがあったな、と思い出した。
この本は、ヒカリが大学生のときの、授業に必要があるということで強制的に購入させられたものだった。
上下併せて5000円くらいもする、貧乏タバスコ家にとっては通常は絶対購入しないような(図書館を使って手にするような)ご本であったのだ。
だから、ヒカリが持ち帰った荷物の中からこの本を発見したときも「もったいないからいつか読もう」という動機で取り置かれたご本であったのだ。
もったいないから、という理由ではなかなか積極的には手にできなかった。加えて、タバスコは浅薄かつ貧弱な読書体験から、この類の本は、こういう傾向があるだろうと、浅薄に判断して貧弱な想像力を働かせてしまうところがあった。
そういう先入観があって読み始めてみたら、「ものごとを数量化しすぎることには懐疑的であった。」とジョン・ダワー氏は、タバスコに囁きかけてきたのである。
まさに、「さよか」である。
「言葉の微妙な意味あいとか『象徴的』な言葉の使い方に敏感」な氏の著すノンフィクションがおもしろくないわけない。
テーマそのものには特に惹かれたわけではなかったのだけれど、読み始めたら、すぐに惹きこまれてしまった。
「言葉の微妙な意味あいとか「象徴的」な言葉の使い方に敏感」な人の文章を味わい尽くしたいという思いからゆっくりとしか読み進めない。
一字一句を正確に理解したい。
今後もおばあちゃんに付き合って病院の待ち時間はたくさん用意されているような予感がする。
まさに、読書の秋に、いいめぐり会いができた本日のタバスコ。
今日の日記のタイトルはですね。
おばあちゃんが検査室に入っている時間(一時間くらいと言われた)に、病院敷地内にあるスタバの、屋外テーブルで読書タイムを享受したタバスコの周辺に、金木犀の香が漂い来てたわけです。
金木犀の香に抱きしめられて、敗北を抱きしめざるを得なかった戦後の日本人の記録を読み進んでいたわけざんす。
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