6月6日の日記です。
塾で、勉強に飽きてきた子どもたちはときどき私の携帯をいじって遊んだりする。私の手帳を勝手に開いたりもする。
だから、携帯の待ち受け画面の中のご老人が「先生の大切な人」であることを子どもたちは知っている。
手帳に記された「本当と嘘とテキーラ放送日」とか「山田さん74歳誕生日」の記載も「先生の好きなおじいさんのことらしい」と察している。
だから4日の水曜日の授業のときまいちゃんが「あさって、おじいさんの誕生日やで、先生」と私の手帳をみながら「覚えてるか?」と聞いてくれた。
「覚えとるわい。あったりまえやろ」とこのガラの悪い先生は答える。
まいちゃんは、暇に任せて手帳のその日の欄にピンクの蛍光ペンでハートマークを書き込んでくれた。おまけに、傘マークの下に「先生」と「山田太一」の名前を並べて書いてくれている。
ハハハハハ。中学生やなァ。
ということで、4日のあさって、つまり本日6月6日は山田太一様の74回目のお誕生日です。
17歳のころから私は山田太一ファンです。
この人のドラマは特別だなって高校生の私は思いました。
それから幾星霜。
ドラマを見て、考えて、何度も見直して、違う見方を得て、また考えて・・・
山田さんのドラマが教科書だったな、確かに私にとって山田太一ドラマはただのテレビドラマじゃなかった、そう、人生の教科書だったな、と
今思ったりしています。
たくさんたくさん山田さんのドラマを見て、35年が過ぎて、52歳になりました。
山田さんのおかげで、聡明で、思慮深く、奥ゆかしくもあり大胆且つ勇敢、しかも真の優しさを兼ね備えた大人としての魅力にあふれたそんな女性に成長することが出来ましたっ。
ありがとうございます。
すべて山田さんのおかげです。
山田さん、バンザイ。
ダンナが一日家にいて、私を無為徒食へ誘導したのである。
目障りなので目を閉じているとそれは延々と私を惰眠に向かわせることになったわけだ。
と、まったく好きなものとは対極のダンナのことをこけ落として(こけにして落として)おいて、好きなものを語る今日の私との対比を皆様にお見せしてみました。
日曜日の朝、8時半に朝食を済ませる。
9時からNHK教育の日曜美術館(正しくは、「新日曜美術館」らしい)を見るためにダンナを隔離部屋に追い払う。
山田太一氏が銅版画家、浜口陽三を語るという。
これは前もって山田ファンbbsにてあいどん師匠からの告知があったので。
私の大好きな山田さんが、お好きな画家について語られるというので、浜口某さんについては恥ずかしながらまったく存じ上げてもいないながら山田さん見たさにチャンネルを合わせているわけである。
いや、素晴らしかった。
浜口陽三の銅版画もであるが、それを語る山田さんが。
好きなものについて語るとき、人はこんなに美しく謙虚になれるものか、という点に。
以前に少しだけ書いたことがあるんだけれど、ブログってつまりみんなが「私はこれが好きだ」って主張している場、と言ってもいいんじゃないかと思います。
ブログに限らずですが、人はみんな自分の好きなものについて語りたいわけですよね。
ある女性作家のファンのサイトにときどき行ってみるんだけれど、あんまり面白くない。
そこには「この作家を好きな私が好き」って空気が充満しているように感じられて、実は私も結局はそういう自分を語りたい欲求を持っているのかと気づいたらとたんにしらけた気分になってしまったことがある。
好きなものについて語るというのにはそれなりにわきまえというか、距離感覚が必要なんだなと思わせられたわけです。
でもそんなことは凡人にはなかなか難しいことで、つい好きな作家について語っているつもりが、この作家をこのように讃える自分の語り口に酔ってしまう、つまり自分を讃えるような気配がたったりしてしまうのじゃないか。
今朝見た山田さんにはそんなところが微塵もなかった、などと言いたいわけではありません。そんなレベルで山田さんを讃えたいわけじゃないんです。
ただもう、お好きな画家について語る山田さんが美しくて、それは引いてはこの画家を好きな自分について語ってらっしゃるのだけれど、それもまた美しい。
好きなものを語るというのは、それを好きな自分を語るということに他ならないのだけれど、それをこんなに美しく語れるというのは、やはり山田さんの美しさなんだなあとしみじみ思わせられたわけです。
美しいという形容詞はこういうときに使うものなんだろうとも思ったわけです。
僭越ながら、私は、本物を探して旅する旅人だと自分を讃えたことがあります。(この讃えるは、ちょっと遊び心も含んで使っていますが)
洞察力というか観察眼というか自分のそういうものに自信があってというわけではないのですが、私という人間のレベルで分かる範囲でではありますが、本物志向があると思っています。できれば偽者と本物を見分ける眼力を持ち得たいと望んでいます。
そういう意識を人よりは強く持っているという程度ですが。
今朝、山田さんを拝見して、この人は本物の人間だなあと改めて思ったのです。
そして、この人を34年前からずーっと好きな私を讃えてしまったわけです。えへへ。
河合隼雄氏が亡くなられた。
私は、氏の著作をそんなにたくさん読んだわけではない。 でも、私にとって河合氏は特別な人である。 それは、「魂の現実」ということばを私に教え示してくれた人として。 魂の現実ということばの持つ深さをどれほど私が理解できているかはあやしいところもあるのだけれど、このキーワードを示されたことで、私のものの考え方、人への接し方、読書の際の読み深め方に大きな変化が生まれたことは間違いないと思っている。 以下は、ドラマファンというbbsに五年前に私が書いたものです。 「魂の現実」ということばを河合氏から教わった直後の、その驚きを書いています。 魂の現実 投稿者:○○ 投稿日: 2002年5月16日(木)19時19分40秒 「山田作品に現れる超常現象」について。 私はあいどんさんにいつかお聞きしたいと思っていたテーマでした。 山田作品の魅力の一つは、描かれる人間のリアリティにあると思うんですが、時としてリアリティという言葉からすこしずれた場面に出くわすことがありました。 あいどんさんは「作劇的にどうなのだろうと少し違和感を」もたれた、ということでしたね。 幾人かの知り合い(特にドラマファンでもなく山田ファンでもない)に聞いてみたことがあるのですが、評判はあまり芳しくないようです。 たとえば「夏の一族」などは、前半の登場人物たちの知的で冷静な振る舞いと後半になってからの「超常現象」を受け入れていく過程が納得いかないという感想を述べた人もいました。 「想い出づくり」や「ふぞろいの林檎たち」を楽しんだ人たちの中には、山田太一の「転向」(?)と捉えた人もいたようです。 私の中にも一時山田さんがことさらに超常現象やファンタジーに向かわれているのはなぜなんだろうと訝るような気持ちがありました。でも、作品としてのおもしろさに惹き付けられて、それはそれで楽しんでおけばいいのだ、という程度の解釈で収めていました。 とにかく私は贔屓の引き倒し的山田ファンでしたから。 作品の傾向として明かに異種のものとして書かれたファンタジー三部作(「異人たちとの夏」、「飛ぶ夢をしばらく見ない」、「遠くの声を捜して」)を読むと、山田さんの心のなかにこういったものへの強い希求があったことに始めは意外な気がしました。 ドラマに本物の「リアリズム」を、その中から表現できる重層な感動をたくさんのドラマファンに見せてくれた山田さんの、作家としての欲求の中にファンタジーへの強い希求があったことをはじめて知ったように思いました。 三作目の「遠くの声を捜して」発刊後の河合隼雄氏との対談のなかにそれまでの私の中にあったもやもやが全部解き明かされるような、山田さん自身の言葉や河合隼雄氏の分析的解釈がありました。できるだけ完結に引用してみます。 河合「まず私の専門分野から言いますと、これを(遠くの声を捜しての)主人公の笠間恒夫が分裂病を発病する過程として見ても、すごくうまく書かれていると思いました。(中略)精神病理の教科書になるぐらい見事ですね。」 山田「私としては、この種の非現実の話しを書くことに興味を持ち出してから、つとめて知的な情報を排除して書こうとしています。(中略)ですから笠間の症状が分裂病に非常に似ているというのを今初めて伺って、逆にびっくりしています。」 この後、お二人の話はこの作品中のディテールについて山田さんが意図していないにもかかわらず、河合氏はそれぞれが精神病理の立場から非常に「リアリティ」があると分析されています。で、心理学の立場だけから見ると結末の盲目の美少女の存在によって現実感が薄れて、「ちょっと残念ですね。」と言われ、山田さんは、「(略)しかしまあ、私は分裂病の症例を書いたつもりはないので、ファンタジーの結果として美少女をお楽しみいただけないでしょうか(笑い)。」と楽しそうに反論されています。 河合「(略)最後に結論めいたことを言いますと、『遠くの声を捜して』はファンタジー風に書かれていますが、僕はファンタジーは魂の現実だという考え方ですので、すごくリアリティを感じました。」 山田「(略)ファンタジー三部作と謳うつもりだったのですが、リアリズム三部作と改めなければなりませんね。(後略)」 対談のあとでの、河合氏の話。(要約) 小説中の主人公の症状についてはかなり研究して書かれたものと思っていたら、そうではないことを知って驚き、さすがに作家というものはすごいなと思った。 非現実の話を書くつもりで知的な情報を排除して書いても、そのときの自分の心の深部へと下降して取り出してくると、それはきわめて現実的になるのだ。 現代の「生々しい現実」に関わらずに生きていけることへの警鐘として、というのが今回の作品の動機といっておられる。実際は気付かずにいるだけの「生々しい現実」に気付いてもらうためには「ファンタジー」で語らねばならないという逆説が存在している。(後略) この対談を読んでみて、いわゆる超常現象的シーンを、山田作品の中のリアリティーが、生活というレベルから魂のレベルへより深まった結果として、というふうに考え直すととてもよく納得できました。 河合さんのことばのなかの「魂の現実」という言い方がいつまでも心に残りました。 「夏の一族」の後半の展開を、戦争体験を今も引きずっている人の「魂の現実」と解釈すると、そのリアリティーが前半も後半も一貫していることに改めて気付かされました。 |
今日は、東京で観劇オフ会がもたれている。 |
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