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まだ始まってもいないお話ではあるけれど、このタイトルだけで様々な想像が広がる。

番組宣伝などは私は極力みないようにしている。

始まる前に、自然にかき立てられる期待だけでもうお腹いっぱいになってしまう。

タイトルから想像するだけで十分エキサイティングしてしまう。

山田さんのドラマは、タイトルの付け方が秀逸だと思う。
作品自体のすばらしさの前に、タイトルが表している妙を誰も言及しないけれど(過去数回タイトルのつけ方の秀逸さを取り上げている人も数人いたのはいた)、何十年も経ってからそのドラマから発していたものがほんの短いタイトルに凝縮していたことに気づかされたりもした。

早春スケッチブック
それぞれの秋
岸辺のアルバム
迷路の歩き方
シャツの店
ふぞろいの林檎たち

(列挙しきれない・・・)

そういう経験に基づいて、まだ始まってもいないドラマのタイトルから、そのドラマが私にもたらしてくれるであろう感動を想像する、そのことの幸福を今かみしめている。

奇跡といえば、私は私の50数年の人生で山田太一という人のドラマにめぐり合えたことの奇跡を思う。
17歳という人間形成にとって貴重な時期にめぐり合えたことも併せてそれから52歳となった今日までなんと大きな喜びをこの人からいただいたことだろうと思うと奇跡という言葉を使いたくなってしまう。

地味でしょぼい片隅の一主婦の人生を、山田さんのドラマがどれほど励まし温めてくれたことだろう。

そして、幸運なことにその感謝しても仕切れない片隅の一ファンの気持ちの一端は山田さんにお伝えすることができた(と思っている)。

もう、これ以上のことは望まなくてもいいかな、と思う。

これが最後の連続ドラマと山田さんはおっしゃっている。

いつからか、「もう連続ドラマは書かない」宣言を山田さんはあっちこっちで口にされていた。
そのことを山田ファンの多くはどこかで諦め切れなくていた。
私も。(なんどか直訴したこともあったなぁ)

でも、もうこれが最後とおっしゃる山田さんの言葉に頷くことにしよう、と私は思っている。

抗い切れないものがあるということ、諦めなくてはならないものがあるということ。


そういうことを山田さんのドラマから私たちは学んだはずだから。


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7年も前になるのだけれど、山田太一さんの講演会で、講演後に聴衆の質問に先生が答えてくださるという時間が設けられていて、だれぞの質問に答えられての流れの中で、「魅力的な老人の俳優さんが少ない。だから私は緒形さんにお会いするたびに『早くおじいさんになってください』とお願いしてるんですよ」と笑いながらおっしゃったことを覚えている。7年前だから緒形拳は64歳だったのだろうか。先生は67歳かな。
山田さんの中には魅力的なおじいさんの姿の緒形拳に託したい老人のドラマがおありなんだろうとそのとき私は勝手に想像した。いつの日か魅力的な老人を緒形拳が演じ、それを堪能できる日が来ることを確信していた。
ここ数年はご自分の書く気力と緒形拳の加齢の塩梅とを換算して、焦りにも似たお気持ちがあったのではないだろうかなどと、僭越ながら思いを馳せたりしていた。

2年ほど前に60代後半の老人の孤独を描いたドラマが緒形拳主演で作られはしたけれど、多分先生は、まだまだこういうんではないんだな、と思われていたのではないかと私は思っている。そのドラマ自体ちょっと残念な出来だったし。

先日三國連太郎が新作映画の宣伝のためだろう、ワイドショーに姿を見せていた。
85歳、まだまだ美しく俳優としての気力も十分お持ちのような姿だった。
私は、三國連太郎もかなり好きなのであるが、85歳の三國連太郎を見て、改めて思ったのは85歳の緒形拳を永遠に私たちは見られないということへの残念さだった。

神様っていないんだな、と思うね。

何で緒形拳を持って行っちゃうんだ。もっと他に持っていってくれちゃっていい輩はいるだろうに(特に永田町あたりには)。

まったくもって緒形拳の死に関しては私ははらわたが煮えくり返っちゃうという思いに襲われてしまう。

まったくもったいない。もったいなくて腹が立つ。


そんな思いで遺作となった「風のガーデン」を見ている。

おもしろいんだけどさ、私はやっぱり倉本聰って本質的に好きになれないんだなと思ってしまう。

この人は決定的に山田太一とは違うということに改めて気がついた。
山田太一なら絶対出てこない台詞を緒形拳が口にする。

遺作となったこのドラマで、その一言が残念で仕方ない。

今週は夜のバイトがお休み(塾もお盆休みなのだ)。

だからちょっと気が緩んで夕べは1時半まで夜更かしした。

ヒカリとイチャイチャしたり、腰が少し具合悪いので一時間入浴で腰を温めたり。
お風呂から上がるとヒカリはもうおねんねしてた。(25才の娘におねんねはないやろ!)

急に思いついて山田さんのドラマを再生してしまう。


「やがて来る日のために」


先日のネット友達のウハメラさんとベアトリーチェさんのライブでウハメラさんの作った「訪問看護」という歌を聞いて喚起された気持ちから再び見たくなったというわけ。

フリーライターのウハメラさんは、取材で聞いた訪問看護士さんのお話からその歌を作られたそうです。

それは、余命宣告を受けた働き盛りの男性が、死までの短い時間を家族とともに特別なことをするためではなくそれまでのように暮らすために在宅介護を望み、訪問看護士のもとを訪れる、そういうシーンから始まる歌でした。


大げさなことばは何も使わないでウハメラさんはええ歌にしてはりました。タバスコからはさんざんあほぼけかす、スケベオヤジと日頃罵られているウハメラさんですが、こんなええ歌を作るとは!他人とは真に思いがけない存在ですね。
ほんまにええ歌でした。

ま、その歌のことはあっちゃへ置いといて、そこから思い出してこのドラマをもう一度見たくなったわけです。

このドラマは訪問看護士と、彼女が関わる数人の在宅患者との交流を描いたものです。
その中に、10代で死んでゆく少女のエピソードがありました。

自分の病名を正確には知らされていなくても、だんだん弱っていく少女は自分の死期を徐々にわかって行ったのでしょう。
最後にどうしてもこれだけはしたい、という望みを訪問看護士に訴える。
看護士は、「もっと元気になってからにしましょう」と偽りの希望を与える。けれど少女には元気になる日が来ないことはわかっている。かなえてやりたいと思う。少女は切実に最後の望みを訴える。
その少女がどうしても死ぬ前にこれだけ、と望んだこと。

それはかつて通った高校、通学に使った駅、友達と入ったコンビニを見たいというもの。

たった10数年しか生きられなかった少女にとって、それらが輝かしい思い出。死に行く前にもう一度見ておきたいものだった。

無理をして連れて行ってもらう。

駅で、その駅に入ってくる電車を、そこで乗り降りする人を、ドアが閉まりまたその駅から出て行く電車を少女はホームから愛おしそうに見送るんです。

もうもうそのシーンは何度見ても何度見ても今思い出しても泣けてしまう。

特別な、悲劇的な恋愛で演出しなくても人を感動させるものがそのシーンにはありました。死に行く少女の、電車を愛おしそうに見送るその眼差しだけで。

で、ついそのドラマを最後まで見てしまい、びちゃびちゃに泣いてしまい、寝る前にもう一度顔を洗う羽目になりました。

そんなわけでねぼすけタバスコが珍しく夜更かしをしたという話でした。


えっと、ウハメラさんの作った歌に、私は同質の感動をもらいました、とこれもついでに書いとこか。


週末外出中に、定期購読している「考える人」という雑誌が届いていた。
山田さんの上質のエッセイが連載されているのに田舎の書店では滅多にお目にかかれない種類の雑誌なので定期購読することにしたのだ。

で、今回のエッセイのタイトルが「アメリカの夜」。

トリュフォーのこの映画を人に薦められたのをきっかけに、ご自分でも見直されて、その周辺のお気持ちを書かれている。
そのエッセイの内容はちょっと横へ置かせていただきます。(ごめんなすって)

「アメリカの夜」を私は見ていない。
試写会のチケットは手にしたことがある。
ある人に、「いっしょに見に行きましょう」と誘いの手紙とともにもらったことがあるのだ。

長形4号の白い封筒、内側に濃い紫色の用紙が重ねて製袋されている、皆さんもよくご存知の、オーソドックスな、今となってはなんとなく郷愁をそそられるあの白い封筒。

16歳の私が初恋の片想いの人に決死の覚悟で告白のラブレターを出し、その返信として届いたものでした。封筒の中に「アメリカの夜」の試写会のチケットが入っていたのだ。

手紙が届いてから約束の日まで2週間くらいあったのかな。
どこに行くにもその手紙を持ち歩いていた。鞄の底にしのばせて、外出先の、ほんの短い一人になる時間に取り出して何度も何度も読み返した。
字が、まず字がすごく素敵だった。
その人の字を見たのは初めてだったんだけど、めまいがするほどその字が素敵だった。それ以外になんと説明したらいいんだろう。素敵な字。
映画がとても好きであること、今までにどんな映画が印象に残っているかなどが、その素敵な字で結構な量書いてあった(「アラバマ物語」「ベン・ハー」「ラストタンゴ・イン・パリ」なんてタイトルが手紙の中にあったことを思い出す。もっとたくさんの映画のタイトルが列挙してあったけれど思い出すのはそれだけ。)

それと、大学受験に失敗して浪人が決定しちゃったこと、だから当分は恋愛とか考えてられるような身分じゃないことが断わってあって(つまりもうその時点で振られちゃってるわけなんだけど)でも、このチケットは2枚あるから「映画いっしょに見に行きましょう」って書いてあったのだ。
チケットは、皺にならないように本の間に挟んでおいた。その本のタイトルを思い出そうとするんだけれど思い出せない。(残念。)

高校1年生から2年になる春休みのことです。
約束の日は雨が降ってました。
冷たい雨だった。
阪急の西京極のホームで待ち合わせていたんだけどベンチで腰掛けていると私の吐く息が白かった。寒かったんだけど私はボタンダウンのシャツにニットのベストしか着てなかった。多分2週間の間考えに考えて「これを着ていこう」と決心していて、その朝ことのほか気温が低いのに臨機応変に対処できなかったと思われる。
その人は薄いカーディガンを羽織っていた。
シャツはどんなだったか覚えていないけれど、下半身はスリムのぼろぼろのジーパンだった。
実はこの人のぼろぼろのスリムのジーパンに恋をしたといっても過言ではないのだった。
西京極の駅から阪急に乗ってたった一駅の桂で下りて、高校まで15分くらいの距離があった。その道を私はひたすらその人の下半身を見つめて歩いていたのだ。16歳の秋から冬、冬から早春にかけて。

阪急に乗って烏丸で下り、試写会の時刻までまだ時間があったので地下街の喫茶店に入った。
なんだか冷え冷えとした店の片隅でコーヒーをはさんで座って、何を話したのか全然覚えていないんだけれど、なんでか延々話し続け、試写会の時間が過ぎてしまってもなぜかしゃべっていたのだ。(だけど会話が弾んだという記憶もない。自分に思いを寄せる小さな女の子の気持ちに報いて上げられないのがかわいそうでその人は席を立てなかったのかなぁ?)
試写会がすっかり終わってしまうほどの時間までしゃべっていた。
お昼近くになって、「バイトがあるから」とその人とは烏丸の駅で別れた。
私の手元に「アメリカの夜」のチケットが残っていた。初恋の失恋の形見。

でも、そんな感傷にひたる間もなくトイレに駆け込んだ。冷えて冷えて、おしっこ行きたくてもう漏れそうで・・・

見ることができなかったアメリカの夜はその後も見る機会はなかった。

山田さんのエッセイの中に「1973年の作」という文字を見つけて、はいはいその通りです。
あれは、1973年早春、タバスコ16歳の出来事でございましたとも。


ってことは1973年3月と11月、この年タバスコは1年に二度失恋してるんだ。
なんてこったい(11月の失恋については割愛)。


しかし、52歳の今となって思うのは、失恋はしとくもんですね。
たくさんたくさんしとくもんです。

10代の失恋の思い出が(その思い出から得たものが)、タバスコのその後の生きる支柱になってるような気がしないでもない。そういうところ無きにしも非ず。


「アメリカの夜」見てみようかな、なんて思ってしまいました。

今夜、私の住んでいる田舎町で風間杜夫のお芝居があった。

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/080521/tnr0805210759002-n1.htm


この記事中の第一部から第三部までの一挙上演は4年前の7月に京都で見たのだ。

公演の1週間ほど前にそのことを知り、「ぎょえー」となった。
なぜなら公演のある7月17日の翌日に私は京都へ行くことになっていたのだ。(父の7回忌で)
こりゃ困ったな。
まったく全然行けそうにないならそれはそれであきらめもするが、たった一日のタイミングのずれというのは返って口惜しさが増すではないか。
何とかならないもんかねぇ。

ってことで何とかしたわけ。
ダンナといっしょに帰省する予定だったのを私だけ一足先に京都入りすればいいんじゃーんってことで。

7月17日というのは、祇園祭の山鉾巡行の日でもある。
そして、私は知らなかったんだけど山鉾巡行とは別の催し、八坂神社のお神輿のお練りもあるんだって。
と、それを教えてくれたのはクラス会bbsで、「風間杜夫のお芝居を見に京都へ帰るぞ」っていう私の書き込みを読んだW君。
W君はどういうわけかその神輿を担ぐことになっているというのだ。
そして、「タバスコが芝居を見終わって出てきたころに南座の前を通る予定やで」って。
南座は祇園、八坂神社のすぐ近くにあるのだ。そこが風間杜夫一人芝居の公演場所なのだ。なんつうめぐり合わせ!

その日、2004年7月17日、お芝居が終わって南座を出て四条通で待っていると、神輿がやってきた。
Wがいた!いたけど神輿は担いでなかった。
もう年寄りなのでただ付いて歩いてるだけやった。
法被、地下足袋姿で私のそばまで来て、「タバスコ、おまえも付いて来い」と言うので神輿のあとを付いていく。
神輿は、花見小路から三条、木屋町界隈を練り歩き、最終的には新京極四条のお旅所まで行くらしい。
Wは神輿の人だかりから離れて、まずは三条のアイリッシュパブへ私を誘う。
Wは法被姿のままアイリッシュビールを軽く2杯ほど飲んでまた神輿に戻る。次に木屋町で「ピエ・ノワール」へ。
「ピエ・ノワール」はおしゃれなシャンパン・バーなのだ。
いくらなんでも法被姿では・・・と私はお店の人に、「ツレがこんな格好してますけど」と断わりをいれたら、店長さんらしき人に「大歓迎です」とゆってもらう。ハハハ。やっぱり祭りは無礼講なんやね。
シャンパンを2杯ほど飲んで慌てて神輿に戻りあとはお旅所まで。

誠に珍しい経験をさせてもらった。大きなおまけのついた観劇経験と相成った。
それが4年前の風間杜夫一人芝居三部作一挙上演観劇の顛末であったわけです。



そして、今夜、あれから4年たって、10数年間に及ぶ風間杜夫一人芝居シリーズが一応完結を迎えることになった。 
団塊世代の牛山明の心の旅路ともいえるこの長い物語の旅が終わるのだ。
それを、意外にもこんな田舎町の小さなホールで見られることになったのも不思議なめぐり合わせのような気がしないでもない。

今夜は何のおまけもついてなかったけどね、おもしろかったです。

田舎の小ホールにどれくらいの人が見に来ていたのか。
5、600人くらい?
その中で多分私が一番このお芝居を堪能したと思う。

だって、俵星玄蕃やもん。

カラオケの得意なサラリーマン牛山明(特に三波春夫先生の「俵星玄蕃」をキンキラ衣装で歌う場面が圧巻!)はシリーズ第一部で、ちょっとしたトラブルから会社を辞める羽目になり、町を彷徨っている間に記憶喪失になる 。
二部では記憶を失った牛山の病院での生活。
いろいろあって、牛山明の放浪が始まる。文字通り旅回り一座に拾われそこで役者稼業をしながら日本中を放浪する生活。
そこへ息子が訪ねてきて、家族との細い交流が復活、しかし家には戻ろうとしないというところが描かれているのが第三部だった。

今夜の芝居はその続編で、一座の座長の妻と駆け落ちしてしまう牛山、それが四部、座長の妻と別れたあと東京に戻りホームレスの男に拾われ同居するもその段ボールハウスが強制撤去され・・・・

場面が変わると牛山は自分の家のリビングで妻と向き合っている(とはいえ一人芝居なので一人語り)。
折りしも今日は娘の結婚式らしい。テーブルには娘からの手紙。
妻は結婚式場に向かうべく牛山をリビングにひとり残し出かける。
所在なげに家の中を見回す牛山。
戸棚の上に放置されたボストンバッグを見つける。
埃を払って中を開ける。そこから出てきたのはキンキラの衣装。
訝りながらもつい袖を通す牛山。
娘からの手紙を読んでいるうちに何かが牛山の脳裏を掠める。
彼の口をついて出てくるのは・・・

涙をためて振り返る
そば屋の姿を呼びとめて
せめて名前を聞かせろよと
口まで出たがそうじゃない云わぬが花よ人生は
逢うて別れる運命とか
思い直して俵星
独りしみじみ呑みながら
時を過ごした真夜中に
心隅田の川風を
流れてひびく勇ましさ
一打ち二打ち三流れ
あれは確かに確かにあれは
山鹿流儀の陣太鼓・・・

次第に記憶が戻ってくる牛山。

あとはもう止まらぬ勢いで俵星玄蕃の熱唱へなだれ込むのだった!


吉良の屋敷に来てみれば、今、討ち入りは真最中、
総大将の内蔵之助。見つけて駆け寄る俵星が、
天下無双のこの槍で、お助太刀をば致そうぞ、
云われた時に大石は深き御恩はこの通り、厚く御礼を申します。
されども此処は此のままに、
槍を納めて御引上げ下さるならば有り難し、
かかる折りも一人の浪士が雪をけたてて
サク、サク、サク、サク、サク、サクー、
『先生』『おうッ、そば屋か』


4年前の南座でもそうやったけど、また今夜もいっしょに歌てしもたもんなぁ(あ、もちろん心の中で唱和しただけ)。 
こんなん風間杜夫と(完全)唱和できるのは私だけでしょうとも。




やっぱりお芝居はおもしろい。
お芝居がおもしろいというより芝居を見るというテンションが好きなんかな。

思い返すと、4年前の7月17日はWと神輿もろともへめぐった花見小路から三条、木屋町、四条までの全部がお芝居の中での出来事みたいなもんやったな。

田舎の片隅でほとんど地味に暮らしてる主婦タバスコの晴れ舞台やった。

お芝居を見るというのはどこかそういうところがある。
芝居を見に行く私が特別の私になれる、そんな感じかな。 


ほとんど地味に田舎で暮らすタバスコに、たまにハレに日がやってくる。
それはお芝居とともにやってくる。

お芝居を見に行く私はひととき自分以外の何ものかを演じてる気分になれる、のかな。

それが観劇する私。

52歳になって、多分もうそんなに目覚しいこともないねんよね。

たまぁに羽目はずして、おばはん以外の私になってみたい日もあるやんかいさ。

それくらい許したって。

プロフィール
HN:
タバスコ
年齢:
67
性別:
女性
誕生日:
1956/05/26
職業:
兼業主婦
趣味:
広範
自己紹介:
おもろいおばはん
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