だけど人間は甘い
先週末、三姉妹&母の四人(枯れ草物語風)で山陰地方へ蟹を食べに出かけた。
「城崎、浜坂蟹三昧ツアー」たらなんたらそんな謳い文句のついた日帰りバス旅行。
上の姉から、「お母さんは、私ら三人が集まるのが何よりうれしいんやから、アンタも出ておいで」と召集がかかったのだ。
タバスコは三姉妹の末っ子。(一番上に兄もいる四人兄妹)
12月23日の早朝出発のバスツアーなので、前日から大阪に住む姉のマンションに泊まることになった。
そして当日、やや足元のおぼつかなくなった82歳の老母の手を引いて、老三姉妹は蟹三昧ツアーへと参戦したのだった。
姉たちと蟹を食べながら気がついたのだけれど、蟹の食べ方がそれぞれに違っているのだ。
母が一番先に蟹を食べ終わったのには驚いた。
「お父さんは蟹の食べ方がうまかったさかい、お母さんも上手やねん」なんやそうです。
父と母は寝具の縫製加工の小さな工場をパートのおばちゃんを数人雇って営んでいた。
二人で一日中小さい工場の中で綿埃まみれで働いて、夕方その工場のすぐ裏手にある長屋の小さな家に帰ってくると父はすぐにちゃぶ台の定位置に座り込みお酒を飲みだす。
母はそれからご飯の支度に取り掛かる。
酒の当てに、冬場にはいつもコッペ蟹を用意してた。
コッペ蟹というのはズワイの雌の呼称ですね。
その蟹を父は丁寧にほぐしてゆっくり食べる。お酒をちびりちびりと飲みながら。
その父の周りにはお腹をすかせた幼子が取り囲んでいる。
父は丁寧にほぐした身を、ぴよぴよとさえずるひな鳥の口にえさを分け与える親鳥のようにお箸で私たちの口に入れてくれる。
あるいは、外子と呼ばれる赤いプチプチした玉子はこれは子どもたちのものだったので(ま、多分大人の味覚ではあまり美味しくなかったんでしょう。けれど子どもたちには食感が人気だった)、それを器用に甲羅から外すと小さな皿に入れて子供たちに下される。姉たちと取り合って食べたものです。
私は、たまに姉たちが外遊びからまだ帰っていないときなどは独り占めできる恍惚に身震いしたほどでした(過剰表現)。
そんな父の思い出話を繰り返し繰り返し私たちはしながら蟹をいただく。
一番しゃべっていたのは下の姉だった。
母があらかた蟹を食べ終わり、次に私が最後の雑炊に取り掛かっているとき、下の姉の手元を見ると、蟹の身を全部ほじくりだし終わったところだった。
この人はなんと、まず全部の蟹の身をほじくり出すのに専念していたのだ。
私は、うまくほじくれないものは殻ごとガシガシと噛み砕いて、残った殻を吐き出したりなどして、目の前はなんだかグチャグチャの状態。
向かいに座る姉のお膳の前は殻と身が整然と分けられているのだった!
そういえば、私は下の姉の思い出話にうなづいているだけだったような。
母などはまったく沈黙していたかもしれない(耳が少し遠いのでそのせいもあるかもしれないが、蟹を食べているときはしゃべれないものですよね)。
上の姉もどちらかといえば整然と食べている。
姉二人は、父から蟹の身のほぐし方を教えられたことなども話している。
なるほどねー。
私一人がグチャグチャの食べ方をしているのでした。
私は末っ子で、父は私には特に甘かったという話を何度となく兄姉から聞かされていたのだけれど、つまり、もう四人目の末っ子には躾けたり、教えたりする気力がなかったってことなのではないだろうか。
私は蟹の食べ方だって父にそんなに詳しく教えられた覚えはない。
なるほどなー、と私はもう一度思う。
お箸の持ち方が私だけとても変なのも合点がいったのだった。
お箸の持ち方と歯並びには生育環境がにじみ出るものだというのは父の持論であったのだけれど、私のお箸の持ち方はとても変で、それは私の生育環境の杜撰さを物語っているってことなのだろう。
目の前の食べ散らかした蟹の殻の残骸もまたその杜撰さの証明なのだった。
「城崎、浜坂蟹三昧ツアー」たらなんたらそんな謳い文句のついた日帰りバス旅行。
上の姉から、「お母さんは、私ら三人が集まるのが何よりうれしいんやから、アンタも出ておいで」と召集がかかったのだ。
タバスコは三姉妹の末っ子。(一番上に兄もいる四人兄妹)
12月23日の早朝出発のバスツアーなので、前日から大阪に住む姉のマンションに泊まることになった。
そして当日、やや足元のおぼつかなくなった82歳の老母の手を引いて、老三姉妹は蟹三昧ツアーへと参戦したのだった。
姉たちと蟹を食べながら気がついたのだけれど、蟹の食べ方がそれぞれに違っているのだ。
母が一番先に蟹を食べ終わったのには驚いた。
「お父さんは蟹の食べ方がうまかったさかい、お母さんも上手やねん」なんやそうです。
父と母は寝具の縫製加工の小さな工場をパートのおばちゃんを数人雇って営んでいた。
二人で一日中小さい工場の中で綿埃まみれで働いて、夕方その工場のすぐ裏手にある長屋の小さな家に帰ってくると父はすぐにちゃぶ台の定位置に座り込みお酒を飲みだす。
母はそれからご飯の支度に取り掛かる。
酒の当てに、冬場にはいつもコッペ蟹を用意してた。
コッペ蟹というのはズワイの雌の呼称ですね。
その蟹を父は丁寧にほぐしてゆっくり食べる。お酒をちびりちびりと飲みながら。
その父の周りにはお腹をすかせた幼子が取り囲んでいる。
父は丁寧にほぐした身を、ぴよぴよとさえずるひな鳥の口にえさを分け与える親鳥のようにお箸で私たちの口に入れてくれる。
あるいは、外子と呼ばれる赤いプチプチした玉子はこれは子どもたちのものだったので(ま、多分大人の味覚ではあまり美味しくなかったんでしょう。けれど子どもたちには食感が人気だった)、それを器用に甲羅から外すと小さな皿に入れて子供たちに下される。姉たちと取り合って食べたものです。
私は、たまに姉たちが外遊びからまだ帰っていないときなどは独り占めできる恍惚に身震いしたほどでした(過剰表現)。
そんな父の思い出話を繰り返し繰り返し私たちはしながら蟹をいただく。
一番しゃべっていたのは下の姉だった。
母があらかた蟹を食べ終わり、次に私が最後の雑炊に取り掛かっているとき、下の姉の手元を見ると、蟹の身を全部ほじくりだし終わったところだった。
この人はなんと、まず全部の蟹の身をほじくり出すのに専念していたのだ。
私は、うまくほじくれないものは殻ごとガシガシと噛み砕いて、残った殻を吐き出したりなどして、目の前はなんだかグチャグチャの状態。
向かいに座る姉のお膳の前は殻と身が整然と分けられているのだった!
そういえば、私は下の姉の思い出話にうなづいているだけだったような。
母などはまったく沈黙していたかもしれない(耳が少し遠いのでそのせいもあるかもしれないが、蟹を食べているときはしゃべれないものですよね)。
上の姉もどちらかといえば整然と食べている。
姉二人は、父から蟹の身のほぐし方を教えられたことなども話している。
なるほどねー。
私一人がグチャグチャの食べ方をしているのでした。
私は末っ子で、父は私には特に甘かったという話を何度となく兄姉から聞かされていたのだけれど、つまり、もう四人目の末っ子には躾けたり、教えたりする気力がなかったってことなのではないだろうか。
私は蟹の食べ方だって父にそんなに詳しく教えられた覚えはない。
なるほどなー、と私はもう一度思う。
お箸の持ち方が私だけとても変なのも合点がいったのだった。
お箸の持ち方と歯並びには生育環境がにじみ出るものだというのは父の持論であったのだけれど、私のお箸の持ち方はとても変で、それは私の生育環境の杜撰さを物語っているってことなのだろう。
目の前の食べ散らかした蟹の殻の残骸もまたその杜撰さの証明なのだった。
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