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お芝居の後のカーテンコールで、吉田栄作が一歩前に出て、「この震災でぼくたちの公演も4日間休演を余儀なくされました。4月に入って被災地でチャリティ公演を催し・・・」とこの時期に多くの人たちに発信できる機会に言うべきことというわきまえを持った上でのコメントがありました。

今回の芝居のテーマが、働けど働けどわが暮らし楽にならざりきってところにあり、社会構造や政治に問題があるってことを笑いを交えての永井さん流の主張の仕方が洗練されていて本当に見ごたえがあったのですが、だからこそ、終演後のそのコメントはちっとも唐突でもなく自然なものとして、「さすが」感のもと観客たちは聞いていたと思います。

私もそのように聞いていました。ただ帰りの電車の時間を気にしながらですが…

「・・・で、このあとロビーでささやかながら募金活動を致します。永井愛もロビーで募金箱を持って立っておりますので、よろし・・・」

とそこまで聞いて、「ええええええ!永井さん来てはんのぉ!」と激しく反応してしまいました。

こんな田舎の地方公演にまさか作家が随行してきているとは思いませんでしたぁ。

で、タバスコおっとり刀で立ち上がりロビーへ、いざ。その前におしっこしてから。

そしてロビーへ向かうとすごい行列!

へえええ、と驚きつつその行列の後ろに並んでみたものの、ちょっと解せない気もして、うろうろと目を泳がせてみると・・・

永井愛さんは、その行列とは少し離れたロビーの片隅でぽつんと募金箱を胸元に抱えて立っておられました。

行列は沢口靖子、吉田栄作の募金箱への行列でした。

てなわけで、そこで永井さんとタバスコは二人きり状態となり、「お芝居楽しませていただきました」ととっておきのコメントをさせていただき、「お話できて光栄でしたぁ」とも申し上げることができ、でもそれだけで胸がいっぱいで、一礼してその場を立ち去りました。

ああ、握手ぐらいしてもらっても良かったなぁとは、ホールを出て、駅までの高架橋を渡ってしまってから気が付いたんですけどね。

 
永井愛さんの「シングルマザーズ」という芝居。

これは2月に横浜に行く予定があった時、東京で面白い芝居やってないかなぁ、ついでに芝居見られたらラッキーやなぁって思って、いの一番に二兎社を検索して、私が横浜に行くちょうどその時期に上演スケジュールがぴったんこだった!んだけどチケット完売という憂き目を見、そののち地方公演があることを知ったという山あり谷ありの状況変化ののちの一件落着事件でございました。


2月の時点でまだまだ先のお楽しみだ~と油断しておりまして、気がついたら前日になって大慌てこきました。(チケットどこにしもたんやろ?うろうろうろうろ)

高松なので車で行くかJRかなんてことも考え、車なら近くの親せき宅に駐車させてもらうべくあいさつしとかな、とか手土産の一つも、とかうろうろしてしまいましたがダンナがちょうど仕事で高松に行くってんでその便を利用することに。

7時開演だけどダンナの都合もありホールに着いたのが5時10分ごろでございまして、タバスコは、図らずも与えられたそんな時間が妙に嬉しくて、ホールの入っているサンポートタワービルを徒らに上下してみたり(シースルーのエレベーターが楽しい)、展望階にある喫煙室で徒らにタバコを吸ったり(この喫煙室がよかったのよ~、ちゃんとテーブルと椅子があって、自販機ながら挽きたて風コーヒーも飲めるし。式ちゃん!横浜の喫煙ルームはみじめやったよね~)、展望台から意味ありげに海を眺めてみたり、写メ撮ったり(おばはんが意味ありげに写メを撮っていると、きっとあのおばはんブログに載せようともくろんでるな、とか人は徒らに邪推したりするのではなかろうかと、徒らに周囲の視線を警戒してみたりしながら)しているうちにちょうど良い時間になりにけり(6時40分ごろ)

東京ではあっという間に完売の永井愛のお芝居も、ここど田舎の高松では空席が目立つなぁ。
とはいえ前から5列目の、舞台を見上げるような位置のタバスコの席からは、前の座席の、おっさんの後頭部が目障りだわ!おっさんの頭はなぜにああも無意味にでかいのでしょうか。

お芝居は、大変面白く楽しみました。
私はね。


でも田舎の人たちにはどうだったでしょうか。半分の人が退屈したかもしれない。

なぜなら永井愛は橋田寿賀子じゃないから、いちいち人の心の細部までもをセリフにして説明するなんてことはない。
見るものの見識と想像力に委ねられるところがある程度ある(ある程度ね。大した程度じゃない、タバスコ程度で十分)。それでも客席の半分くらいかなぁ、と感じるのはタバスコの皮膚感覚。(この感覚がやはり都会で観劇するときとは大違いなのねぇ)

現に、私の前にいた巨大頭部のおっさんは休憩後帰ってこなかったあるね。あの巨大な頭部はやはり無意味な見かけ倒してあったのだ。やっぱりな。しかし、これはタバスコには大変ラッキーで、二幕目からはぐっと舞台の見通しがよくなった。

感想とか書くべきところなんだけど、あまりうまく書けそうにないので(まとめている時間がないんです、今すごく忙しくてhttp://www.nitosha.net/sm/story.html
を参考になさってください。)、これだけ。

終演後、ロビーで永井愛さんにお会いできました!

少しお話もできました。

もっとゆっくりできなくもなかったんだけど、大したことも言えそうになく、これだけお伝えして…

「お芝居、楽しませていただきました」と。

こんな地方公演の、終演後のロビーになぜ永井愛さんがいたのかについては・・・・


つづく。


54年生きてくると、一年の長さが54分の1になるということを発見した。

去年一年は53分の1だったから、去年よりもさらに今年は短く感じるんだろうな。

15歳の時の1年は15分の1だからそりゃ大した長さだった。
だから未来には気が遠くなるほど膨大な時間があるものだと思っていた。
1年の長さがどんどん短くなるなんて知らなかった。


これはごく最近知った64歳の人の人生について考えていて気づいたことだったんだけどね。

私が15歳の時、その人は25歳で、その人にとっての25分の5の時間を費やしたはずの5年間の生活を一夜にして捨て去って、まったく別の生活を始め、40年近くの時間を経て、その過去の25分の5時代のことを振り返って語る彼は、64分の5としてのその時代の価値をほぼ正確に、過大にでもなく過少にでもなく彼にとっての64分の5として振り返り語っていたことに感動してしまった。

彼にとっての64年のどの一年もが価値あるものだったという自信が彼の語りに表れていたからだろう。

そういう人生を、素晴らしいと言えるのかもしれないなぁ、なんて思ったのでした。

ザ・タイガースのピーが40年ぶりにメディアに登場、という報に思ったことでした。
 

母は6人兄弟姉妹の、下に4人の弟、一番末っ子に妹が連なる長女です。

そして母が84歳になった現在、この6人のうち生き延びているのは長子の母と末っ子の叔母の二人だけ。(やはり女のほうが断然長命なのだなぁ)

4人の弟たちは40代であったり50代であったり60代であったり、一番長生きをした3番目の弟も一昨年70歳で亡くなっている。

母の弟妹達は、一言で言うと波乱万丈さんたちばかりだった。

商売に大成功して大もうけして、その後はじけてしまった弟もいる。
性格が凶暴(?)であっちこっちで喧嘩騒ぎを起こしてはその都度親代わりの母と父とが後始末に奔走させられたという弟もいる。

大きな借金をこしらえて行方知れずになり、何十年もして消息が知れたときがお葬式の案内だったという4番目の弟は死に目も気の毒なものだったと聞く。

そして、母のすぐ下の弟はいわゆる帰国船で北朝鮮に渡り、多分最も悲惨な死に方をしたのではないだろうか。(永く安否も知れなかったのだけれど、どうも最後は収容所送りとなって亡くなったらしいから)


そういう波乱万丈な人たちだけれど、人生の中には穏やかな時間も多少はあった。

それは私の子ども時代の記憶と重なる時期でもあり、昭和40年前後の数年間のこと。
兄弟の行き来も頻繁で、私には従姉妹たちと遊んだ記憶も楽しくなつかしい。

その記憶の、ハイライト的、象徴的シーンが毎年母の弟妹家族がうち揃い団体で出かけた敦賀湾内の海水浴旅行なのだった。

一日は湾内の無人島で過ごす。
「水島」という名前の島だったと記憶していたけれど子ども時代の耳だけの記憶で、沖合いにしょぼく浮かんでいるその島には本当には名前などなくて、父や叔父たちが便宜上「みずしま」とかなんとか呼んでいただけかもしれない、そんな気もしていた。


だから、夕べ読んだ小説の中に「水島」の名前を発見したとき自分でもびっくりするぐらい心が波立ったのだ。
この「水島」はあの「みずしま」のことや~ん。


その小説の最初の三行目、「敦賀半島の西側に500メートルにわたって広がる明るいベージュの砂浜は・・・」とあるのを読んだときに既に、それは私の知っている風景だな、と思ったのは思ったの。

ヤドカリが自分の身にあった貝殻にもぐりこむように、ここが自分の住処と決めて敦賀に住み始めた勝男が、春の終わりに「ファンタジー」に出会う。
ファンタジーに「おまえの運命の女だ」と教えられた「かりん」。
梅雨が明ける頃「かりん」に再会し、その時女が言うのだ。
「水島に行きたくて岐阜から来たんです」って。

「水島」ってそんなに有名な島なんだろうか。
あのころ、その無人島は私たち一族の貸し切り状態だったんだけど。


遠浅の砂浜が島を囲んでいて、その水はどこまでも透明。

「珊瑚礁の海の鮮やかさとは違う、砂地の海の、まろやかな深みのある色調だった。」

と形容してある。

その昔、水島の遠浅の、透明な海水に体を半分浸しながら、母や叔母達が「沖縄の海もこんなんかなぁ。沖縄まで行かんでもここで十分やな」って話していたのだ。

子ども心に「沖縄の海」に負けないのか、って思ったものだったが、質的に比較できないものらしいことをこの年になって知ることになった。

水島は無人島で、だから食糧は全部持ち込んでいた。
それは民宿で作ってもらったおにぎり。

まだ若かった父や叔父達は素潜りでサザエやあわびをバケツにいっぱい獲って、海岸でバーベキューをした。

45年近くも昔の話になる。

そうか、あの当時の母はまだ40代だったのかと気がついたり。


小説の中の「水島」の描写にドキドキしながら、それはきっとその風景の中に蘇る若き叔父や父や母や叔母や従姉妹たちの姿を嗅ぎ付けたいからなんだなぁって気がつき始めていた。

まだ赤ん坊の従弟がいたり、新婚の叔母がいたり。その叔母は夫になったばかりの人を一族のそんな旅行に連れてきた年もあった。その叔母の夫だった人も今はもう亡くなっている。
羽振りの良かった叔父一家だけが敦賀市内のホテルに宿泊し、それでもやはり海岸でのサザエのバーベキューには参加したがり、別の叔父といざこざが起こりそうになったり。

そして、義理の弟たちに「兄さん」と慕われている父もまだ40代で、父は本当に、この問題の多い義理の弟たちの面倒をよく見た人だった。
その後いろいろ揉め事の多い弟たちの尻拭いをさせられながら、血のつながっている母がもう見捨てるようなことを言っても父は最大限義弟たちの面倒を見た人だった。

あの数年間の、兄弟仲良く海水浴旅行に出かけていた時代のことを、父もまたその後の人生でなつかしく、ほろ苦く思い出すことも何度かあったのではないだろうか、と私は最後にはやはり父のことを思ってしまう。

今年は父の13回忌だった。
その集いにはもうその義弟たちの誰一人来れなくなってしまっていた。



夕べ、就寝前の読書に思わず昂奮して、50数ページまで読み進んでしまい、勝男とファンタジーと、かりんではない勝男のかつての同僚片桐が物語に加わって、3人はこれからに新潟目指して、片桐のアルファロメオでドライブ旅行に出かけることと相成ったようだ。

水島の描写はここまでか。

と思って本を閉じ目をつぶってもしばらく眠りがやってこないくらい心が波立っていた。

明日はこのこと日記に書こうって思ったわけです。
久し振りに心が波立ったなぁ、なんて夜更けの雨音を聞きながら。









注:水島が出てくる小説は、絲山秋子の「海の仙人」です。

プロフィール
HN:
タバスコ
年齢:
61
性別:
女性
誕生日:
1956/05/26
職業:
兼業主婦
趣味:
広範
自己紹介:
おもろいおばはん
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