だけど人間は甘い
数日前のことになるのだけれど、フーコからの手紙を受け取った。
年末に、喪中欠礼のはがきを受け取って、お父さんが亡くなられたことを知った。
年賀状を出せない代わりにお悔やみの気持ちを込めて手紙を出していてその返事。
私が思い出せるフーコのお父さんは、多分まだ40代ごろの姿だろう。
彼女の家に遊びに行くと、時々姿を見かけた。
穏やかな、口数の少ない人。あまり強い印象はない。ただ、フーコがお父さんを大切に思っている様子は感じられた。それは彼女の母親への反発との対比として私にはそういう風に見えたということかもしれない。
小学5年生で同じクラスになって以来の長年の友人。
私にとっても彼女にとっても一番古い友人だろう。(手紙の中にもそんな文言があった、「私たち40年前からの友だちなんだねぇ」と)
フーコはそのクラスで一番勉強ができる女子だった。
勉強だけじゃなく、体育も音楽も何でも素晴らしく良くできた。そうだ、書道も段持ちやった。
お母さんは、教育ママゴンだった。
フーコの家に遊びに行くと、そのお母さんから「アサカワさん!勉強してるっ?」と、これは質問ではなく叱咤激励のような口調で声をかけられるのが怖かった。私は自分の母親からもそんなことは言われたことがない。
そのお母さんの強い意向でフーコは中学は私立へ行かされた。(行かされた、という印象)
私は地元の公立中学。そこで離れ離れになった。
私立中学のピアノ科で、ピアニストになるべく鍛錬していたはずのフーコは、3年生のとき地元の公立中学に編入してきた。
久しぶりに会うフーコは普通の女の子になっていた。
小学校のときの、何かとがったような鋭い感じがなくなって、勉強も体型も普通の女の子になっていたのだ。
彼女はそのとき、「私立の中学で私はバカになってん」というようなことを言ったように記憶している。お母さんの意向に従うことをやめちゃった結果ということのようだった。もう、ピアノは見るのもいや、と言っていた。
バカになっちゃったフーコと私は同じ高校へ進学し、同程度の、だけど別々の大学へ進学した。
高校2年のとき私とフーコは二人だけで北海道一周の旅をした。
計画は全部フーコが立てた。大きなリュックを担いでユースホステルを渡り歩く、いわゆるカニ族スタイルのワイルドな旅行。それは彼女の嗜好だった。彼女をピアニストにしたかったという母親の嗜好とは真逆のスタイルを彼女は選択しているようにも見えた。
大学時代にはもっと本格的なワイルドな、放浪といえなくもないような旅行へ彼女は一人で出かけて行った。もう私を誘うことはなかった。(高2のとき程度のワイルドさにわたしゃついていきかねて途中で喧嘩して別行動をとったりしちゃったこともあった)
外国へもそんな調子で出かけて行ったりしてた。
つかず離れずの関係。
離れていてもいつもなんとなく意識しあうところはあったかもしれない。
大切に思い合っていると言い切ってしまうには、若い頃の感情はそう簡単ではないところもあった。
同じ時期に、まあ普通の恋愛をして、同じ時期に結婚しちゃった。
私はともかくフーコが普通に恋愛して普通に結婚しちゃうのには少し驚いた。
恋愛をし始めたとき、一度夜遅くに私の家に来たことがあった。当時私の部屋は、外階段を使うと出入りが自由にできる場所にあり、彼女がやってきたのは深夜だった。恋をし始めた女の子特有の高揚でフーコはなんだか一杯しゃべっていった。一杯しゃべった後で少し照れていた。
彼女は、就職した会社の先輩社員と恋愛し職場結婚をし、寿退社した。
高槻にある彼女の新居に遊びに行ったのは、暑い盛りだった。普通に恋愛をして普通に結婚しちゃったフーコと私の、それまでのこととそれ以後のことを考えるとき、あの夏の日盛りの中、特別な屈託もなくフーコの新居を訪れた日のことが妙に象徴的に思い出される。51歳の今の私がその日を象徴的に思い出してしまう。
あの日には、そんなことは思いもしなかったけど。
つづく。
年末に、喪中欠礼のはがきを受け取って、お父さんが亡くなられたことを知った。
年賀状を出せない代わりにお悔やみの気持ちを込めて手紙を出していてその返事。
私が思い出せるフーコのお父さんは、多分まだ40代ごろの姿だろう。
彼女の家に遊びに行くと、時々姿を見かけた。
穏やかな、口数の少ない人。あまり強い印象はない。ただ、フーコがお父さんを大切に思っている様子は感じられた。それは彼女の母親への反発との対比として私にはそういう風に見えたということかもしれない。
小学5年生で同じクラスになって以来の長年の友人。
私にとっても彼女にとっても一番古い友人だろう。(手紙の中にもそんな文言があった、「私たち40年前からの友だちなんだねぇ」と)
フーコはそのクラスで一番勉強ができる女子だった。
勉強だけじゃなく、体育も音楽も何でも素晴らしく良くできた。そうだ、書道も段持ちやった。
お母さんは、教育ママゴンだった。
フーコの家に遊びに行くと、そのお母さんから「アサカワさん!勉強してるっ?」と、これは質問ではなく叱咤激励のような口調で声をかけられるのが怖かった。私は自分の母親からもそんなことは言われたことがない。
そのお母さんの強い意向でフーコは中学は私立へ行かされた。(行かされた、という印象)
私は地元の公立中学。そこで離れ離れになった。
私立中学のピアノ科で、ピアニストになるべく鍛錬していたはずのフーコは、3年生のとき地元の公立中学に編入してきた。
久しぶりに会うフーコは普通の女の子になっていた。
小学校のときの、何かとがったような鋭い感じがなくなって、勉強も体型も普通の女の子になっていたのだ。
彼女はそのとき、「私立の中学で私はバカになってん」というようなことを言ったように記憶している。お母さんの意向に従うことをやめちゃった結果ということのようだった。もう、ピアノは見るのもいや、と言っていた。
バカになっちゃったフーコと私は同じ高校へ進学し、同程度の、だけど別々の大学へ進学した。
高校2年のとき私とフーコは二人だけで北海道一周の旅をした。
計画は全部フーコが立てた。大きなリュックを担いでユースホステルを渡り歩く、いわゆるカニ族スタイルのワイルドな旅行。それは彼女の嗜好だった。彼女をピアニストにしたかったという母親の嗜好とは真逆のスタイルを彼女は選択しているようにも見えた。
大学時代にはもっと本格的なワイルドな、放浪といえなくもないような旅行へ彼女は一人で出かけて行った。もう私を誘うことはなかった。(高2のとき程度のワイルドさにわたしゃついていきかねて途中で喧嘩して別行動をとったりしちゃったこともあった)
外国へもそんな調子で出かけて行ったりしてた。
つかず離れずの関係。
離れていてもいつもなんとなく意識しあうところはあったかもしれない。
大切に思い合っていると言い切ってしまうには、若い頃の感情はそう簡単ではないところもあった。
同じ時期に、まあ普通の恋愛をして、同じ時期に結婚しちゃった。
私はともかくフーコが普通に恋愛して普通に結婚しちゃうのには少し驚いた。
恋愛をし始めたとき、一度夜遅くに私の家に来たことがあった。当時私の部屋は、外階段を使うと出入りが自由にできる場所にあり、彼女がやってきたのは深夜だった。恋をし始めた女の子特有の高揚でフーコはなんだか一杯しゃべっていった。一杯しゃべった後で少し照れていた。
彼女は、就職した会社の先輩社員と恋愛し職場結婚をし、寿退社した。
高槻にある彼女の新居に遊びに行ったのは、暑い盛りだった。普通に恋愛をして普通に結婚しちゃったフーコと私の、それまでのこととそれ以後のことを考えるとき、あの夏の日盛りの中、特別な屈託もなくフーコの新居を訪れた日のことが妙に象徴的に思い出される。51歳の今の私がその日を象徴的に思い出してしまう。
あの日には、そんなことは思いもしなかったけど。
つづく。
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