だけど人間は甘い
2001年から2002年は私にとっては大きな転機の時期だった。
ヒカリは大学を続けることになり、私自身は、ネットを始めたことで長い停滞と閉塞感のなかにちっこいながらも風穴が開いたような心持を感じ始めた時期。
フーコにとってはどんな時間だったのだろう。まだしんどい季節が続いていたのかもしれない。
2002年のお正月に会った後しばらく会わないままの数年が続いた。
2005年の夏休みに難波の駅近くの居酒屋で飲んだ。
ヒカリは大学を卒業していた。アイちゃんは単位制の高校を何とか卒業したもののまだ自分探しの暗中模索といった様子。
このときの二人の気分は「子どものことは心配したってしようがないねぇ」というものだったような気がする。
世間の基準で言えば二人とも子育て失敗人なのかもしれない。
ただ、負け惜しみではなく、失敗して損をしたとは思っていなかったような気がする。
二人で、いっぱい痛い目に遭ったことを報告し合いながら、笑えていたから。
「アイちゃんは、ずっとずっとフーコに評価されたくて評価されないことがつらかったんと違うかなぁ」
「うん、そうやろと思う。今なら少しわかる」
「私はヒカリをめちゃめちゃ誉めて育てたつもりやってんけど、あの子もまたどこかで評価されてないと思ってたのかもしれへん」
「ヒカリちゃんもとアイもどっちも母親の影響を受けすぎたってところがあるんやろねー、私らが悪かったんやな」
「それは確かにある。そやけどどこの親もみんな悪いとこだらけなん。それに気付けただけでも儲けもんやねん」
「そうなん?私ら儲けたん?」
「そうや、えら儲けやん」
そんなことを話した。
居酒屋の薄暗いボックス席で、向かいに座るフーコを見ながら、長い時間のことを少し考えた。
フーコはすっかり皺が増えていた。
私も彼女からそう見えていただろう。
11歳、小学5年のクラス替えで出会って、そのクラスで一番勉強のできるフーコと一番暴れん坊の私は実は反目し合うところもあったのだ。
彼女の家に遊びに行って、お母さんの叱咤激励にびびったのは、実は勉強のできるフーコより私が学級委員に選ばれたことをこのお母さんは気に食わないのではないだろうか、と私が勝手に気にしていたせいかもしれない。
放課後はいつも遅くまで学校に居残って遊び呆けた。私が遊びのリーダーになって。その放課後にフーコはいっしょに遊べなかった。塾やピアノのレッスンが毎日あったから。
11歳の子どもにもそれなりの悩みや悲しみはあったんだろう。
11歳の子どものボキャブラリーでは表せないから、その悩みや悲しみは言語化されたものとしては記憶に残っていない。
だから、あの時間を共有した者同士だけに分かり合えるものがあるのかもしれない。
フーコから来た久しぶりの手紙は、
「たよりありがとう、ずっとずっと手紙書きたいなと思っていました」という書き出しの手紙だった。
お正月には実家に帰っていたこと、でも時間と気持ちに余裕がなく私には連絡できなかったこと(どっちにしても私は帰省してなかったんやけど)、だけど、「いつも心のどこかにどうしてるかな、と思っています」と書いていた。
お父さんの発病から看病のこと、同時期にご主人もまた大きな手術をしたこと、その間に長男と長女が何とか自立したこと(アイちゃんは東京で働いているそうだ)、麦穂が中学生になったことが近況報告として書いてあった。
いまはずいぶん楽なった、麦穂は、山村育ちののーんびり屋さんです、とも。
そして、その手紙の中に何度も何度も「ゆっくり会いたいと思います」と書いてあった。
最後に書いてあったのは、最近読んだ本のこと。
「60才の沢木耕太郎が書いた『無名』」を読みました」と。
「私は21才のとき25才の沢木が書いたノンフィクションを読みすごく感動したのです。60才の沢木を読んで、改めて25才の沢木を理解しました。こんなことを考えているのが51才の私の近況です。
あ~~、会って話したいな。」
というところで長い手紙は終わっていました。
ありきたりな恋愛をして普通に結婚して、新妻のフーコと私が、フーコの新居で他愛なく笑いあった日から25年以上が過ぎた。
「こんな結婚生活になるとは夢にも思いませんでした。」
手紙の中にはそんな一行もあった。
ほんまやねぇ、こんな結婚生活になるとは夢にも思わへんかったねぇ。
会って話したいと何度も言うフーコに、さて、私はフーコに話したいと思えるような生き方をしてるのかな、と自分の生活を振り返ってちょっとたじろいだ。
こういう刺激を与えてくれるところがやっぱりフーコなんだな、と思いもする。
今年中に会えたらいいな、と思います。
おわり。
ヒカリは大学を続けることになり、私自身は、ネットを始めたことで長い停滞と閉塞感のなかにちっこいながらも風穴が開いたような心持を感じ始めた時期。
フーコにとってはどんな時間だったのだろう。まだしんどい季節が続いていたのかもしれない。
2002年のお正月に会った後しばらく会わないままの数年が続いた。
2005年の夏休みに難波の駅近くの居酒屋で飲んだ。
ヒカリは大学を卒業していた。アイちゃんは単位制の高校を何とか卒業したもののまだ自分探しの暗中模索といった様子。
このときの二人の気分は「子どものことは心配したってしようがないねぇ」というものだったような気がする。
世間の基準で言えば二人とも子育て失敗人なのかもしれない。
ただ、負け惜しみではなく、失敗して損をしたとは思っていなかったような気がする。
二人で、いっぱい痛い目に遭ったことを報告し合いながら、笑えていたから。
「アイちゃんは、ずっとずっとフーコに評価されたくて評価されないことがつらかったんと違うかなぁ」
「うん、そうやろと思う。今なら少しわかる」
「私はヒカリをめちゃめちゃ誉めて育てたつもりやってんけど、あの子もまたどこかで評価されてないと思ってたのかもしれへん」
「ヒカリちゃんもとアイもどっちも母親の影響を受けすぎたってところがあるんやろねー、私らが悪かったんやな」
「それは確かにある。そやけどどこの親もみんな悪いとこだらけなん。それに気付けただけでも儲けもんやねん」
「そうなん?私ら儲けたん?」
「そうや、えら儲けやん」
そんなことを話した。
居酒屋の薄暗いボックス席で、向かいに座るフーコを見ながら、長い時間のことを少し考えた。
フーコはすっかり皺が増えていた。
私も彼女からそう見えていただろう。
11歳、小学5年のクラス替えで出会って、そのクラスで一番勉強のできるフーコと一番暴れん坊の私は実は反目し合うところもあったのだ。
彼女の家に遊びに行って、お母さんの叱咤激励にびびったのは、実は勉強のできるフーコより私が学級委員に選ばれたことをこのお母さんは気に食わないのではないだろうか、と私が勝手に気にしていたせいかもしれない。
放課後はいつも遅くまで学校に居残って遊び呆けた。私が遊びのリーダーになって。その放課後にフーコはいっしょに遊べなかった。塾やピアノのレッスンが毎日あったから。
11歳の子どもにもそれなりの悩みや悲しみはあったんだろう。
11歳の子どものボキャブラリーでは表せないから、その悩みや悲しみは言語化されたものとしては記憶に残っていない。
だから、あの時間を共有した者同士だけに分かり合えるものがあるのかもしれない。
フーコから来た久しぶりの手紙は、
「たよりありがとう、ずっとずっと手紙書きたいなと思っていました」という書き出しの手紙だった。
お正月には実家に帰っていたこと、でも時間と気持ちに余裕がなく私には連絡できなかったこと(どっちにしても私は帰省してなかったんやけど)、だけど、「いつも心のどこかにどうしてるかな、と思っています」と書いていた。
お父さんの発病から看病のこと、同時期にご主人もまた大きな手術をしたこと、その間に長男と長女が何とか自立したこと(アイちゃんは東京で働いているそうだ)、麦穂が中学生になったことが近況報告として書いてあった。
いまはずいぶん楽なった、麦穂は、山村育ちののーんびり屋さんです、とも。
そして、その手紙の中に何度も何度も「ゆっくり会いたいと思います」と書いてあった。
最後に書いてあったのは、最近読んだ本のこと。
「60才の沢木耕太郎が書いた『無名』」を読みました」と。
「私は21才のとき25才の沢木が書いたノンフィクションを読みすごく感動したのです。60才の沢木を読んで、改めて25才の沢木を理解しました。こんなことを考えているのが51才の私の近況です。
あ~~、会って話したいな。」
というところで長い手紙は終わっていました。
ありきたりな恋愛をして普通に結婚して、新妻のフーコと私が、フーコの新居で他愛なく笑いあった日から25年以上が過ぎた。
「こんな結婚生活になるとは夢にも思いませんでした。」
手紙の中にはそんな一行もあった。
ほんまやねぇ、こんな結婚生活になるとは夢にも思わへんかったねぇ。
会って話したいと何度も言うフーコに、さて、私はフーコに話したいと思えるような生き方をしてるのかな、と自分の生活を振り返ってちょっとたじろいだ。
こういう刺激を与えてくれるところがやっぱりフーコなんだな、と思いもする。
今年中に会えたらいいな、と思います。
おわり。
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