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姑が手術をした。

高齢での手術ゆえ、本人も周囲も不安がいっぱい。

とはいえ、やっぱり私は他人なのだ。
ひどいって思われちゃうかもしれないけど、本当のところ心底心配などしていない。

冷酷な嫁と思われない程度に手術に臨む姑を気遣いはするけれど、結局誰かに(世間?)対するポーズという気配を自分では払拭しきれない。
最低限、心細げな姑がそれ以上不安にならないように、くらいな心遣いで、自分では十分なような気がしている。

手術前日の日曜日の朝になって、ダンナのお姉さん(私にとっては小姑)と姑の妹(叔母)が関西からやってくるという。

数日前には、手術後落ち着いてから見舞いに行くという連絡を受けていて、それで十分です、とこちらは答えていた。

「ええええ?!お義姉さんと叔母さんが来ゃはんの?今夜どうしはるんやろ?まさか、うちに泊まらはらへんやろな」
正直私の胸の中には「鬱陶しい事態やなァ」という思いでいっぱい。

それでなくとも連日往復3時間強の病院へ日参していて、煩雑事もたまってきているのだ。

ああ、鬱陶しいなあ、と思わずにいられない。

手術前日に来るなら、多分手術当日まで滞在するつもりなのだろうし。

高松にホテルでも予約してはるんやろか・・・

ここは、「うちに泊まってください」と言うべきなんだろうか・・・

とすると、一日に数回高松との往復もせざるをえないことになるのだろうか・・・

おいおい、勘弁してくれよ。

鬼嫁はどんどん冷酷な心持になっていく。




電話で叔母と連絡を取り合う。
「和子ちゃん(義姉)は、急に具合が悪くなって行けなくなってんけど、私一人でも行きます。姉さん(姑)の顔だけ見たら勝手に帰るから心配せんといて。駅から病院への行き方だけ教えて」と叔母は遠慮がちに言う。

人間というのは、押されると押し返したくなるが相手に引かれるとまた違う心持になる。

それに、ヒカリも急遽帰省してきていて、おばあちゃんのお見舞いに是非行きたいと言う。

「お母さんは連日病院に行ってるから今日は行きたくないなあ。ヒカリとお父さんと二人で行ってくれると有難いなあ」とは言ってみたものの、手術前日の姑の心細さに、ほんの少し想像をめぐらす余裕が生まれる。

よしっ、叔母さんを駅までお迎えに行って、みんなでおばあちゃんを励ましに行こう!ということになった。

そして、手術前日の日曜日の朝から家族三人で出かけ、高松駅で叔母を拾い、それからまだ30分の行程の病院へ。

車中で叔母は、「私は今日中に帰るから、夕方まで病院にいて、バスで駅まで帰るから大丈夫やで」という。(やれやれ良かった・・・)

ヒカリが、一生懸命おばあちゃんを励ましていた。
おばあちゃんも、ヒカリの見舞いにうれしそうだ。


そして、病院では私たちは1時間ほどいて、叔母を病院へ残して帰ることにした。
叔母には、駅で買った「穴子飯弁当」をお昼ご飯に食べてと渡し置いて。


帰路、和食屋さんで家族三人でお昼を食べる。

ヒカリが、「おばあちゃん、心細そうやった、小さならはった」と言う。

もちろん、私だって徹頭徹尾鬼嫁ではない。
余裕ができれば手術前日の人の心持を慮れないこともない。

でも、ヒカリのことだって心配だし。

それにもっと複雑な思いもある。

実の息子のダンナの貢献度と比して私の負担が大きすぎることに、言葉にできないもやもや感もあるわけ。

これ以上いい嫁ごっこなんてやってられるか、という思いも渦巻くのだ。

しかし、そういうもやもやした気持ちのぶつけどころは、もちろん姑ではない。
それは夫婦としての問題であり、手術を控えた年老いた姑に当り散らしてはならないってことはわかっているんだけどさ。


それ以外のいろいろな思いが私の胸を行ったりきたりするわけです。

例えば、「人は殺してはいけない」などとおおげさな正論をぶつ前に、目の前の年寄り一人にやさしくなれなくてなんとするのか、である。

年老いた実姉の手術を心配して前日に駆けつけてきた72歳の叔母に、本当の心遣いを示せなくて、何が世界平和を祈る資格があるだろう、である。


日曜日の夕方、そんな思いにゆれていたころ、義姉から電話が入る。
「明日(手術当日)は何が何でもそっちへ行くから。でも、私のことは心配せんといて。こっちの勝手な気持ちでいくんやから。」と。


ああ、もうしゃあないね。タバスコ、へんしーん、である。

ダンナに、「叔母さんに連絡とってみて」と言う。

叔母はあのあとひとりで大阪へ帰ったのだろうか。
私が心配する前に実の甥であるキミは何で心配で電話の一つもかけてみようと思わないんだ!とにわかに人情家に変身した鬼嫁タバスコはダンナを叱りつける。

叱り付けられて、叔母に携帯電話を入れるボケダンナ。

そのとき叔母は岡山まで戻っていた。
岡山まで戻ったところで四国に引き返そうとしているところだった、と言う。「どうしても後ろ髪が引かれて、明日の手術が終わるまでそっちにおりたいねんけど」と叔母は岡山でいこかもどろかしていたところだったらしい。
ダンナが、「おばちゃんが、こう言うてる。うちに泊まってもろてもええか?」
「うん。泊まってもろたらええわ」と答えるタバスコ。

叔母はそのまま岡山から引き返してくることに。
一晩我が家に泊まって翌日手術を終えた姉の無事な姿を見てから大阪へ帰りたいと。

身内の気持ちというものはそういうもんなんでしょう。

後ろ髪引かれながら叔母を岡山まで帰らせてしもたのは鬼嫁タバスコへの遠慮やったんでしょう。

お気の毒なことをしました。


もうこうなったらしゃあないね。

叔母さんもお義姉さんもどんと来い、やわ。




そして、月曜日、姑の手術が無事終わり、我が家で一泊した叔母と、近所に住む叔父を車に乗せ、朝早く奈良を出てきた義姉を高松駅で拾い病院へ向かいました。

私たちが病院に着いたとき、ちょうど姑が手術を終えたところでした。

一時間後麻酔からさめた姑は、娘や弟妹の笑顔に迎えられ安心したようでした。


鬼嫁はちょっと離れたところから見ていただけです。

ま、良かった良かった。
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私のネットのお友達にらーめんちゃんの歌さんという冗長なお名前の男性がいる。この名前にはちゃんと由来があるらしいんだけど(聞かせてもらったけど)割愛します。
らーめんちゃんの歌さん(以下らーめんちゃんとします)は、ただいま子育て真っ最中の42歳のお父さんです。
ひろみんという愛妻、長男K平12歳、長女しおりん9歳、次女ミッシー5歳という一家のドタバタをネット上で公開しているらーめんちゃんの日記は、家族愛に満ち溢れた一種ファンタジーと読むファンもいたり、あまりのそのほのぼのさにへそ曲がりの幾人かは、「新種のホラーかいな」などと揶揄する人もいなくはないくらいの、それくらい奇跡的な愛に満ち溢れた家庭を築いておられる、そういうお父さんなわけです。

タバスコはらーめんちゃんを、平成の山上憶良、と密かに評している。(憶良ほどの貧乏ではないが、子育て貧乏ではあるらしい)
らーめんちゃんの、子どもたちに注ぐ愛にあふれた視線に読者は胸が熱くなる。
ひろみんに捧げる愛にはときどき「アホちゃうか」と多くの日本の妻族はひがみたくなる。

さて、らーめんちゃんの長女しおりんが先日9歳のお誕生日を迎えた。
いつもながらに、家族の誰かの誕生日には大騒ぎが繰り広げられるらーめんちゃんち。
しおりんの誕生日ドタバタもちゃんと日記に綴られていた。

それを読んで、タバスコは僭越ながら、お祝いの言葉を申し上げたく思い立ったわけです。

以下、らーめんちゃんに捧げる、「9歳のしおりんに贈ることば」でございます。

しおりん、お誕生日おめでとう。

9歳になったしおりんになにか「贈ることば」を、と思い今日一日過ごしました。

9歳と聞いて、まだ一桁やんけ、と思いました。

私の一桁時代を思い出しました。

9歳のときの思い出。

毎年夏には家族で日本海へ海水浴に行くのが我が家の恒例行事だった。
母の弟妹の家族たちも合流して大団体での海水浴。

福井の敦賀というところ。

私が9歳と言えば、昭和40年のことである。
敦賀の寂びれた漁村の民宿を一軒借り切っての逗留。
なんという名前の村だったのかは覚えていないけれど、子どもの目で見ても寂れた、貧しい漁村だった。
海岸と山に挟まれたその村には数年前までまだ電気が来てなかった、というようなそんな村。(現在そこに原子力発電所ができているのは皮肉な話である)

海岸で従姉妹たちと遊んでいるとその村の子どもたちもときどきやってきて一緒に遊んだ。

その中に九衛門(きゅうえもん)という名前の私と同学年の男の子がいた。

「九衛門!9歳で九衛門!ほんなら、10歳になったら十衛門か。」と9歳の私はそんなことにびっくりするアホな少女であった。

9歳の私は、実はとても微妙な年齢だったのだ。

というのは、8歳の私はとてもおとなしかった。
クラスにいたいじめっ子の平井君にいつも泣かされていたのだ。
7歳の私も6歳も5歳の私も非常におとなしい女の子だったらしい。
らしいというのは、自分で自分をおとなしいとかおてんばとかわからない年齢の自分のことは、周囲の大人が私を評した言葉の断片から推測するしかないから。

で、そのころ私は「どこにいるかわからない子」と言われていたのだ、だ、だ。

多分とっても無口でいたいけな幼女だったのだろう。

7歳のとき私は学校で、給食のときに配られるお茶をこぼして火傷を負う。
でも、おとなしいいたいけな7歳タバスコはそのことを先生に言えなくて、熱さと痛さにただ黙ったままで耐えるキャラクターだったらしい。
隣の男の子が見るに見かねて先生に言いに行ってくれて、やっと治療してもらえた。もうすっかり水ぶくれができていた。この一件から、7歳の私の「どこにいるかわからない子」振りが窺えよう。

5歳の私。
幼稚園の廊下ですれ違いざまにいたずらっ子に三つ編みの髪を引っ張られて泣き出す5歳タバスコ。一緒にいた女の子がその男の子を追いかけて捕まえて仕返しをしてくれた。今なら自分で追っかけていってボコボコにしていることだろうに。

このように、確かに一桁タバスコはおとなしかったわけだ。

ところが9歳はちょっと違う。
3年生の一学期の学級委員をしているのだ。
夏休み前のこと、担任の石川先生(30代もしくは40代前半の女教師)は生徒一人一人に夏休みの目標を与えてくれたんだけど、私の前の席の菱田さんには「勉強しないで遊びなさい」と言ったのだ。タバスコには「算数ドリルをしっかりするように」である。
菱田さんは確か二学期の学級委員だった。勉強の良くできる菱田さんを押しのけて一学期の学級委員をしているということは、勉強ではない部分で目立っていたってことである。

そして、二桁に突入したタバスコは明らかにおとなしくはなかった。
10歳になる直前、4年生の4月に転校したタバスコは、転校生であるにもかかわらず、4年生の三学期(5月生まれのタバスコはこのときには10歳になっている)に学級委員になっているのだ。しかも、勉強は大してできない転校生であるのに、である。
そして、11歳、12歳、地球は私を中心に回っている、と思い上がるタバスコ人生のハイライト期に突入するのである。


9歳に何があったのだろうか。

よくわからない。

何があったんや。



9歳とはこのように謎に満ちた時期なのである。


しおりんにとってのこの1年がどのようなものになるのか、らーめんちゃんとはまた違った興味でタバスコおばちゃんは、君の1年を注視しようと思う。 

らーめんちゃん、定期的にしおりんの9歳レポートよろしくお願いいたします。

らーめんちゃんはもう既にお気づきかと思いますが、しおりんに贈ることばには全くなっていないのであった。
月に一度の「痛快・おんな組」 (CS朝日ニュースター)
今回のテーマは、「おんなと死刑」だった。
テーマに「おんな」が付いているのはこの番組の慣例で、女と死刑の関係がテーマというわけではなく、つまり、死刑制度を考える女たちという程度の意味です。

私の大切なネット友だちのテレビっ子さんは明確な死刑廃止論者だった。 
テレちゃんに問題提起されたとき私は、あまりちゃんと答えられなかった。テレちゃんはさぞかしがっかりしたことだろう。

宿題はまだ手つかずのまま・・・

そして、いまだに死刑という刑罰の存廃については、私は自分の考えをはっきり持てていない。
賛否両論の表面的なところだけを耳に挟む程度で、なんとなく気分的に廃止された方がいいんじゃないのかぁ、なんとなく・・・と思いながら、一方で、もし自分の愛する人が殺されたら、その殺した人間は生かしちゃいないぞ、と考えてしまう私は死刑制度存続支持派といえるんじゃないだろうかと思ったり・・・

いつか、ちゃんと考えてみなければならないことだという意識はありました。
だから今回の番組は真剣に見た。2回見ました。
2回見たけど、死刑の存廃についてまだ明確に自分の中で答えは定まらない。
定まらないけれど、とても大事なことを教えられた。

それは中山千夏という女性の語ることばによって。

殺された人の家族が、犯人憎し、極刑で罰せよと願う感情はわからないでもない、しかし、第三者がその遺族の感情に同調して(あるいは同情して)、「そんな悪人は殺してしまえ!」と言い立てて、本当にそれで良いのだろうか。
あるいは、また遺族にとっても、犯人を殺したいほど憎み、だから死刑にしてくれ、と願う感情を、それが当たり前のことだという次元で留め置いて本当にそれでいいのだろうか。
それが、遺族の究極の救済になるのだろうか。

と彼女は問いかけてくる。

人が人を殺すということを止めたい。
戦争は、国家が国民に人を殺せと命令するものである。戦争を本当になくすためにも、人が人を殺すことを根本的に否定し続ける必要があるのではないか。死刑を否定することもその潮流を作る流れに他ならないという彼女の意見は、私をはっとさせた。
憎しみがどんなに深くても殺すこと、殺したいと思うことを否定し続けたいと、彼女は願っている人である、と解釈しました。
それは、人の感情を否定していることではなく、そういう感情を乗り越える知恵を人は持っているはずだ、ということばにも感銘を受けた。

たとえば、私などは、万が一ヒカリが殺されたりしたら、殺した人間を殺したいと思う。すぐに殺しに出かけるかもしれない。そうでもしなきゃ、愛する娘を殺された感情が収まりきらないだろう。
だけど、殺したところで収まるわけではないのだ。
犯人を死刑にしてもらったって収まるものではない。だけどどうしたって収まりきらない感情のままに、とにかく犯人には死んでもらいたい、極刑で裁いてもらいたい・・・というのが被害者遺族の感情であろうけれど、その感情を、犯人を死刑にすることではないもっと別の方法で、犯人を殺しても収まりきらない感情の収まりどころを探るというのも人間の知恵なのではないだろうか・・・

ずっと以前にラジオであるお父さんの話を聞いたことがある。
大学に入学して間もないその男性の長男が、新歓コンパで一気飲みを強要され、急性アルコール中毒で亡くなった。その父親はこれからの自分の人生を、一気飲みを強要させないための運動に捧げたい、と語っていた。

殺人事件じゃないじゃないか、それはまた別の話だろう、とあなたは思いますか?

子どもを失った親の気持ちとしては、それは殺人と大差ない苦痛であり、加害者に対しての憎しみもそんなに大きな差があるとは思えない。この父親には、一気飲みに関わった先輩学生の罪を追求したり憎み続けるという選択だってあったと思う。けれど、彼はそうはしなかった。
そこには、自分の感情と向き合う苦悩もあっただろうと思う。そして、最終的にはそのお父さん自身の救済が目的だったと思うのです。

最初にラジオでその話しを聞いたとき、まだ世の中には一気飲みの被害はそんなに一般的に知られてはいなかった。
聞いている私は、「砂漠にスプーンで水をまくような話だなあ」と思ったことを覚えている。でも、それから徐々に世間の一気飲みへの認知が少しずつ変わっていったように思います。もちろんそのお父さん一人の力ではなかっただろうけれど、新聞などでその後も何度かそのお父さんの名前を目にしました。
ああ、がんばってはるんやなァとそのたび思いました。そのお父さんは、加害者を憎み続ける人生より、結果的に救われたのではないだろうか、と思いました。
アメリカで、間違って射殺された学生のお母さんが、銃を無くす運動を始められたという話もありましたよね。

人間にはこういう知恵が備わっているのか、と私はこういう話を聞くと感銘してしまう。 


千夏ちゃんはこういう話をしてくれた。
弟を殺された男性が、その犯人の死刑は望まない代わりにその犯人に徹底的に「何故弟を殺したのか」ということを考え続けてほしいと望んだ、と。すると周囲の心ない人間から、犯人の死刑を望まないなんて、本当には弟を愛していなかったんだろうという中傷を受けたというのだ。
身内が殺されたら、その犯人を殺したいと思うのが普通だろうと世間は思い、普通じゃない感情をそのように侮蔑する人間もいる。

凶悪犯罪の被害者に深く同情し、その犯人を憎むことに何の疑いをもつ必要があるだろうか、と多くの人は思うだろう。私もそうだ。特に子どもが殺された事件を見ると、親の苦痛を想像して犯人は殺されるべきだと思う。

だけど、そう思う私たちの、普通だと思っている気持ちを、本当にそれでいいのか、と呼び止める声、それが死刑制度廃止を唱えている人たちの論旨なのかもしれない。

日本では(日本に限らずだけれど)、長く長く女性の人権が軽んじられる時代が続いていた。
男女差別に限らず、人間には尊卑があるという考え方はほんの100年前までの日本なら普通の考え方だったのではないだろうか。

少なくとも現在、人間はすべて平等だと考えられている。
人は等しくその人権は尊重されるべきだと、私たちは教えられている。
人間がお互いの人権を尊重しあおうという考え方は、長い人間の歴史の中で人間が知恵として獲得した考え方ではないだろうか。

殺されてもいい人間はただの一人もいない、という考え方を私たちはこれから獲得していくべきではないのか。

これが死刑制度廃止を訴える人たち(全員かどうかはまだ私にはわからないけれど、少なくともその運動に関わっている中山千夏氏)の、その主張の根拠はそこにあると私は見ました。

殺されてもいい人間はただの一人もいない。

人を殺した人間は、間違ったことをしたのは確かだけれど、その人間もまた殺してはならない。 

この決心は、厳しいものだと思う。 

私はまだその厳しさに耐え切れない。ヒカリが殺されたら、やっぱりその犯人を殺したい。でも、殺しちゃいけないんだ、と思わなくてはならない。
ブッシュも、金正日も殺しちゃいけない。

それがこれから人間が獲得すべき次代の知恵なのかもしれないから。

その知恵が全人類に行き渡った時、殺人も戦争もなくなるはずだと、それを信じる人たちが、私たちに訴えかけてきているのだと思いました。


私もそれを信じたい、と思う人間だけれど・・・
まだ気持ちが定まらない。
本日は、おばあちゃんの検査に付き合って一日病院で過ごしてました。

県都の大学病院なので、往復だけでも3時間を要する。
しかも、今日の検査は午前と午後に分かれているので一日仕事になる覚悟で出かけていました。

覚悟というのは、病院での待ち時間をどのように過ごすか、その手段を講じて、必要なものを用意してという覚悟です。

まずは敬老会の事業報告のための書類を書ければ書こうと思って書類、資料一式を持参。

ノートパソコン持参(隙あらば作家ごっこをしちゃろ)。

それでもまだ間がもたなかった場合のために適当に本を鞄に放り込む。

おばあちゃんが検査室に入るまでの待ち時間に、まず本を取り出してみた。何を放り込んできたのやら判然としない。
分厚い本やがな。
読み始める。

まず、開いてみる。
扉のページに

「平和と民主主義。その理想を決して見失わなかった
ハワード・B・ションバーガーに

と書かれてあった。

次をめくる。

日本の読者へ

と書いてあって、著者(ジョン・ダワー)が本書を著すにいたった経緯や本書の意味や、その意味に込めた思い、特に日本の読者を照準にした思い語っている。

お、おもしろい。(いわば前書きのようなものなのだろうけれど、これだけでもおもしろい)

タイトルは(やっとタイトルにたどり着く)

敗北を抱きしめて(上)

第二次世界大戦後の、戦敗国としての日本の戦後を再検証するノンフィクションととらえていいのかな。


次に本書を著すに当たって協力、尽力、助力してくれた多数の人への謝辞がつづいて(これもおもしろい)、目次があって、「序」にたどり着く。

ここまででかなりおもしろい。

この本は、おもしろい本だということがはっきりとわかった。

確証的に私がそう判断したその根拠は、ここにある。

「大学生のころ、そして大学院に入ったころにも、私は文学や文化の勉強にほとんどの時間を費やしていた(もともと、私は森鴎外について博士論文を書くつもりであった)。「社会科学」の分野だけを専攻し、きっちりと訓練を受けた研究者と違って、われわれの生活のいたるところに浸透している「あいまいさ」に私が興味を持っているのは、こうした経歴があるからである。私は言葉の微妙な意味あいとか「象徴的」な言葉の使い方に敏感で、ものごとを数量化しすぎることには懐疑的であった。夢や希望、そして憎悪や貪欲もまた、理解に値する人間性の一部分だと思っていた。」(「日本の読者へ」の中から)


こういう書物にありがちな、ものごとを数量化してわかりやすくする手法がちりばめられているはずだと、そういえば私は勝手に思い込んでいたところがあったな、と思い出した。

この本は、ヒカリが大学生のときの、授業に必要があるということで強制的に購入させられたものだった。
上下併せて5000円くらいもする、貧乏タバスコ家にとっては通常は絶対購入しないような(図書館を使って手にするような)ご本であったのだ。
だから、ヒカリが持ち帰った荷物の中からこの本を発見したときも「もったいないからいつか読もう」という動機で取り置かれたご本であったのだ。

もったいないから、という理由ではなかなか積極的には手にできなかった。加えて、タバスコは浅薄かつ貧弱な読書体験から、この類の本は、こういう傾向があるだろうと、浅薄に判断して貧弱な想像力を働かせてしまうところがあった。

そういう先入観があって読み始めてみたら、「ものごとを数量化しすぎることには懐疑的であった。」とジョン・ダワー氏は、タバスコに囁きかけてきたのである。

まさに、「さよか」である。

「言葉の微妙な意味あいとか『象徴的』な言葉の使い方に敏感」な氏の著すノンフィクションがおもしろくないわけない。

テーマそのものには特に惹かれたわけではなかったのだけれど、読み始めたら、すぐに惹きこまれてしまった。

「言葉の微妙な意味あいとか「象徴的」な言葉の使い方に敏感」な人の文章を味わい尽くしたいという思いからゆっくりとしか読み進めない。

一字一句を正確に理解したい。

今後もおばあちゃんに付き合って病院の待ち時間はたくさん用意されているような予感がする。

まさに、読書の秋に、いいめぐり会いができた本日のタバスコ。

今日の日記のタイトルはですね。

おばあちゃんが検査室に入っている時間(一時間くらいと言われた)に、病院敷地内にあるスタバの、屋外テーブルで読書タイムを享受したタバスコの周辺に、金木犀の香が漂い来てたわけです。

金木犀の香に抱きしめられて、敗北を抱きしめざるを得なかった戦後の日本人の記録を読み進んでいたわけざんす。

昨日は無為徒食の一日だった。
ダンナが一日家にいて、私を無為徒食へ誘導したのである。
目障りなので目を閉じているとそれは延々と私を惰眠に向かわせることになったわけだ。

と、まったく好きなものとは対極のダンナのことをこけ落として(こけにして落として)おいて、好きなものを語る今日の私との対比を皆様にお見せしてみました。

日曜日の朝、8時半に朝食を済ませる。
9時からNHK教育の日曜美術館(正しくは、「新日曜美術館」らしい)を見るためにダンナを隔離部屋に追い払う。
山田太一氏が銅版画家、浜口陽三を語るという。

これは前もって山田ファンbbsにてあいどん師匠からの告知があったので。

私の大好きな山田さんが、お好きな画家について語られるというので、浜口某さんについては恥ずかしながらまったく存じ上げてもいないながら山田さん見たさにチャンネルを合わせているわけである。

いや、素晴らしかった。
浜口陽三の銅版画もであるが、それを語る山田さんが。

好きなものについて語るとき、人はこんなに美しく謙虚になれるものか、という点に。

以前に少しだけ書いたことがあるんだけれど、ブログってつまりみんなが「私はこれが好きだ」って主張している場、と言ってもいいんじゃないかと思います。
ブログに限らずですが、人はみんな自分の好きなものについて語りたいわけですよね。

ある女性作家のファンのサイトにときどき行ってみるんだけれど、あんまり面白くない。
そこには「この作家を好きな私が好き」って空気が充満しているように感じられて、実は私も結局はそういう自分を語りたい欲求を持っているのかと気づいたらとたんにしらけた気分になってしまったことがある。 

好きなものについて語るというのにはそれなりにわきまえというか、距離感覚が必要なんだなと思わせられたわけです。
でもそんなことは凡人にはなかなか難しいことで、つい好きな作家について語っているつもりが、この作家をこのように讃える自分の語り口に酔ってしまう、つまり自分を讃えるような気配がたったりしてしまうのじゃないか。

今朝見た山田さんにはそんなところが微塵もなかった、などと言いたいわけではありません。そんなレベルで山田さんを讃えたいわけじゃないんです。
ただもう、お好きな画家について語る山田さんが美しくて、それは引いてはこの画家を好きな自分について語ってらっしゃるのだけれど、それもまた美しい。
好きなものを語るというのは、それを好きな自分を語るということに他ならないのだけれど、それをこんなに美しく語れるというのは、やはり山田さんの美しさなんだなあとしみじみ思わせられたわけです。

美しいという形容詞はこういうときに使うものなんだろうとも思ったわけです。

僭越ながら、私は、本物を探して旅する旅人だと自分を讃えたことがあります。(この讃えるは、ちょっと遊び心も含んで使っていますが)
洞察力というか観察眼というか自分のそういうものに自信があってというわけではないのですが、私という人間のレベルで分かる範囲でではありますが、本物志向があると思っています。できれば偽者と本物を見分ける眼力を持ち得たいと望んでいます。
そういう意識を人よりは強く持っているという程度ですが。

今朝、山田さんを拝見して、この人は本物の人間だなあと改めて思ったのです。
そして、この人を34年前からずーっと好きな私を讃えてしまったわけです。えへへ。
プロフィール
HN:
タバスコ
年齢:
67
性別:
女性
誕生日:
1956/05/26
職業:
兼業主婦
趣味:
広範
自己紹介:
おもろいおばはん
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