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今夜、私の住んでいる田舎町で風間杜夫のお芝居があった。

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/080521/tnr0805210759002-n1.htm


この記事中の第一部から第三部までの一挙上演は4年前の7月に京都で見たのだ。

公演の1週間ほど前にそのことを知り、「ぎょえー」となった。
なぜなら公演のある7月17日の翌日に私は京都へ行くことになっていたのだ。(父の7回忌で)
こりゃ困ったな。
まったく全然行けそうにないならそれはそれであきらめもするが、たった一日のタイミングのずれというのは返って口惜しさが増すではないか。
何とかならないもんかねぇ。

ってことで何とかしたわけ。
ダンナといっしょに帰省する予定だったのを私だけ一足先に京都入りすればいいんじゃーんってことで。

7月17日というのは、祇園祭の山鉾巡行の日でもある。
そして、私は知らなかったんだけど山鉾巡行とは別の催し、八坂神社のお神輿のお練りもあるんだって。
と、それを教えてくれたのはクラス会bbsで、「風間杜夫のお芝居を見に京都へ帰るぞ」っていう私の書き込みを読んだW君。
W君はどういうわけかその神輿を担ぐことになっているというのだ。
そして、「タバスコが芝居を見終わって出てきたころに南座の前を通る予定やで」って。
南座は祇園、八坂神社のすぐ近くにあるのだ。そこが風間杜夫一人芝居の公演場所なのだ。なんつうめぐり合わせ!

その日、2004年7月17日、お芝居が終わって南座を出て四条通で待っていると、神輿がやってきた。
Wがいた!いたけど神輿は担いでなかった。
もう年寄りなのでただ付いて歩いてるだけやった。
法被、地下足袋姿で私のそばまで来て、「タバスコ、おまえも付いて来い」と言うので神輿のあとを付いていく。
神輿は、花見小路から三条、木屋町界隈を練り歩き、最終的には新京極四条のお旅所まで行くらしい。
Wは神輿の人だかりから離れて、まずは三条のアイリッシュパブへ私を誘う。
Wは法被姿のままアイリッシュビールを軽く2杯ほど飲んでまた神輿に戻る。次に木屋町で「ピエ・ノワール」へ。
「ピエ・ノワール」はおしゃれなシャンパン・バーなのだ。
いくらなんでも法被姿では・・・と私はお店の人に、「ツレがこんな格好してますけど」と断わりをいれたら、店長さんらしき人に「大歓迎です」とゆってもらう。ハハハ。やっぱり祭りは無礼講なんやね。
シャンパンを2杯ほど飲んで慌てて神輿に戻りあとはお旅所まで。

誠に珍しい経験をさせてもらった。大きなおまけのついた観劇経験と相成った。
それが4年前の風間杜夫一人芝居三部作一挙上演観劇の顛末であったわけです。



そして、今夜、あれから4年たって、10数年間に及ぶ風間杜夫一人芝居シリーズが一応完結を迎えることになった。 
団塊世代の牛山明の心の旅路ともいえるこの長い物語の旅が終わるのだ。
それを、意外にもこんな田舎町の小さなホールで見られることになったのも不思議なめぐり合わせのような気がしないでもない。

今夜は何のおまけもついてなかったけどね、おもしろかったです。

田舎の小ホールにどれくらいの人が見に来ていたのか。
5、600人くらい?
その中で多分私が一番このお芝居を堪能したと思う。

だって、俵星玄蕃やもん。

カラオケの得意なサラリーマン牛山明(特に三波春夫先生の「俵星玄蕃」をキンキラ衣装で歌う場面が圧巻!)はシリーズ第一部で、ちょっとしたトラブルから会社を辞める羽目になり、町を彷徨っている間に記憶喪失になる 。
二部では記憶を失った牛山の病院での生活。
いろいろあって、牛山明の放浪が始まる。文字通り旅回り一座に拾われそこで役者稼業をしながら日本中を放浪する生活。
そこへ息子が訪ねてきて、家族との細い交流が復活、しかし家には戻ろうとしないというところが描かれているのが第三部だった。

今夜の芝居はその続編で、一座の座長の妻と駆け落ちしてしまう牛山、それが四部、座長の妻と別れたあと東京に戻りホームレスの男に拾われ同居するもその段ボールハウスが強制撤去され・・・・

場面が変わると牛山は自分の家のリビングで妻と向き合っている(とはいえ一人芝居なので一人語り)。
折りしも今日は娘の結婚式らしい。テーブルには娘からの手紙。
妻は結婚式場に向かうべく牛山をリビングにひとり残し出かける。
所在なげに家の中を見回す牛山。
戸棚の上に放置されたボストンバッグを見つける。
埃を払って中を開ける。そこから出てきたのはキンキラの衣装。
訝りながらもつい袖を通す牛山。
娘からの手紙を読んでいるうちに何かが牛山の脳裏を掠める。
彼の口をついて出てくるのは・・・

涙をためて振り返る
そば屋の姿を呼びとめて
せめて名前を聞かせろよと
口まで出たがそうじゃない云わぬが花よ人生は
逢うて別れる運命とか
思い直して俵星
独りしみじみ呑みながら
時を過ごした真夜中に
心隅田の川風を
流れてひびく勇ましさ
一打ち二打ち三流れ
あれは確かに確かにあれは
山鹿流儀の陣太鼓・・・

次第に記憶が戻ってくる牛山。

あとはもう止まらぬ勢いで俵星玄蕃の熱唱へなだれ込むのだった!


吉良の屋敷に来てみれば、今、討ち入りは真最中、
総大将の内蔵之助。見つけて駆け寄る俵星が、
天下無双のこの槍で、お助太刀をば致そうぞ、
云われた時に大石は深き御恩はこの通り、厚く御礼を申します。
されども此処は此のままに、
槍を納めて御引上げ下さるならば有り難し、
かかる折りも一人の浪士が雪をけたてて
サク、サク、サク、サク、サク、サクー、
『先生』『おうッ、そば屋か』


4年前の南座でもそうやったけど、また今夜もいっしょに歌てしもたもんなぁ(あ、もちろん心の中で唱和しただけ)。 
こんなん風間杜夫と(完全)唱和できるのは私だけでしょうとも。




やっぱりお芝居はおもしろい。
お芝居がおもしろいというより芝居を見るというテンションが好きなんかな。

思い返すと、4年前の7月17日はWと神輿もろともへめぐった花見小路から三条、木屋町、四条までの全部がお芝居の中での出来事みたいなもんやったな。

田舎の片隅でほとんど地味に暮らしてる主婦タバスコの晴れ舞台やった。

お芝居を見るというのはどこかそういうところがある。
芝居を見に行く私が特別の私になれる、そんな感じかな。 


ほとんど地味に田舎で暮らすタバスコに、たまにハレに日がやってくる。
それはお芝居とともにやってくる。

お芝居を見に行く私はひととき自分以外の何ものかを演じてる気分になれる、のかな。

それが観劇する私。

52歳になって、多分もうそんなに目覚しいこともないねんよね。

たまぁに羽目はずして、おばはん以外の私になってみたい日もあるやんかいさ。

それくらい許したって。

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最近はなんでもすぐに忘れていく。

若いころ、母親のもの覚えが自分よりも劣っているのは、母の忙しさのせいなんだろうと思っていた。

20歳の私は私のことだけ考えていればよくて、母はそうはいかない。
テレビで面白いタレントが出てくればその名前はいやでも覚えてしまうものなのに、同じように見ていた母はそうではないらしいことをそのように理解した。自分のことだけに注意をしているわけにはいかない生活って、つまらなそうだな、なんて、おばかな20歳の私は考えたりした。

20歳の私が何かの折にふとそんなことを考えたことがあったな、といまふと思い出しているだけ。

52歳の私はどんどん忘れていく。
こんなこと忘れるわけがないと、聞いたその瞬間は確信しているようなことでも一日すぎればすっからかんに忘れていたりする。
母も加齢によって忘れっぽくなっていたのか。なんてことを今ごろ気がついたりしている。


脳の高度機能障害っていうの?
どんな名称がついているのか忘れたけど(忘れっぽいからしゃあない)事故や病気で脳の一部が損傷を受けることで起きる複雑な記憶障害の話をずいぶん以前にNHKのドキュメント番組で見たことがあった。
ある男性は、交通事故で脳に重大なダメージを受け新しい記憶ができなくなるという障害に見舞われる。5秒後には忘れてしまう。
その男性にインタビューしているんだけれど、答えている途中で、「えっと何の話をしていましたっけ?」とその男性は何度か聞き返してきたりする。知能が低下しているわけではない。もともとその男性は知的にはすぐれた人(学者か学者を目指して勉強中だったかそういう人)だったので、インタビューへの答え方は的確だし論理的だし話し方も知的であることは十分にわかる。なのに少し話が途切れると、「えっと何の話をしていましたっけ?」とわからなくなるらしい。
それを見ていたのは多分40代の中ごろのことだったと思うんだけれど、私は今ほど忘れっぽくはなく、「まあ、なんて悲劇的な事態にこの人は陥ってるのだろう」とひどくお気の毒に思った。こんな状態の自分をこの先どうやってこの人は受け入れて生きていくのだろう・・・他人事ながら暗澹とした気持ちになった。けれど、その男性は、メモを取る、人との会話を録音するなどの工夫をしてなんとか日常生活を送っていた。彼の日常はそんなに悲劇的ではなかった。
そして最大の課題である就職についても、彼はある職業を得ることができる。それは家具職人。連続性のある作業ならできることを彼は自分の能力の中から見つけ出し、籐家具の籐を編むという仕事を得るわけ。

最近物忘れが著しい自分に気がついて、あっちゃーと思うとき、10年近く前のテレビの中で見た男性のことを思い出す。

もちろん彼の身に降りかかったことと同じに考えるわけにはいかないんだけれど、忘れても生きていけるもんなんやなァって思うことはある。

もちろん忘れて大変な目に遭うこともあるから、気をつけなくちゃならない。最近はメモを頻繁にとるようになった。

これから先加齢に伴う能力の低下はどんどん進むだろう。
あったはずの能力を失っていくばかりの日々。
若い日に想像していたほどそれは悲劇的なばかりのことではなさそうな気がしている。

案外人は順応力があるものなんだな。
なくした能力にいつまでも未練を持っていても仕方がない。
なければないで工夫してやっていくしかない。

たぶんこれも、若い日のような感受性ではなく、さび付いて鈍化することで思い至れる境地なのかもしれないけど。
さすれば、人間というのは肉体もそうだけれど加齢にともなうあれこれはうまくできているものなんだなぁ。


30年後、いまのいろんなことを忘れても私は生きてるのかな。
今は、忘れるはずがないと思っているようなことをすっかり忘れて。
そんなんさびしい話やなあって思ってるのは今の感受性で、全部忘れて穏やかに微笑んで生きてるのかな。

それも悪くないのかな。



なんて思ったことでした。
すみません。投稿遅れました!
6月6日の日記です。


塾で、勉強に飽きてきた子どもたちはときどき私の携帯をいじって遊んだりする。私の手帳を勝手に開いたりもする。

だから、携帯の待ち受け画面の中のご老人が「先生の大切な人」であることを子どもたちは知っている。
手帳に記された「本当と嘘とテキーラ放送日」とか「山田さん74歳誕生日」の記載も「先生の好きなおじいさんのことらしい」と察している。

だから4日の水曜日の授業のときまいちゃんが「あさって、おじいさんの誕生日やで、先生」と私の手帳をみながら「覚えてるか?」と聞いてくれた。
「覚えとるわい。あったりまえやろ」とこのガラの悪い先生は答える。
まいちゃんは、暇に任せて手帳のその日の欄にピンクの蛍光ペンでハートマークを書き込んでくれた。おまけに、傘マークの下に「先生」と「山田太一」の名前を並べて書いてくれている。
ハハハハハ。中学生やなァ。

ということで、4日のあさって、つまり本日6月6日は山田太一様の74回目のお誕生日です。


17歳のころから私は山田太一ファンです。
この人のドラマは特別だなって高校生の私は思いました。

それから幾星霜。
ドラマを見て、考えて、何度も見直して、違う見方を得て、また考えて・・・
山田さんのドラマが教科書だったな、確かに私にとって山田太一ドラマはただのテレビドラマじゃなかった、そう、人生の教科書だったな、と
今思ったりしています。

たくさんたくさん山田さんのドラマを見て、35年が過ぎて、52歳になりました。

山田さんのおかげで聡明で、思慮深く、奥ゆかしくもあり大胆且つ勇敢、しかも真の優しさを兼ね備えた大人としての魅力にあふれたそんな女性に成長することが出来ましたっ。

ありがとうございます。
すべて山田さんのおかげです。

山田さん、バンザイ。


このGW中の最大の収穫は「おいピータン」でした。

ヒカリの部屋にやたらとごろごろ落ちていた「おいピータン」。 


最初は名古屋ローカルのタウン雑誌の一種かなって思ったり、あるいは時代遅れのクッキング・ブック?とか思ってましたけろ、それ以上の興味は持てず掃除中につき、そのやたらごろごろ落ちている「おいピータン」を拾ってはしかるべき場所に片付けたいけど片付かない、もー、なんなの、この邪魔な「おいピータン」!とか思ってました、そんな「おいピータン」。
それが私のGW中の最大の収穫になろうとは、あの時の私には想像だにできなかったことでした。

約1時間後。
掃除に疲れてちょっと横になった隙を見計らって、ヒカリが「おいピータン」攻撃を仕掛けてきたわけです。
はじめは軽くかわしたのです。「お母さんは、まだ掃除中やし。アンタな、手伝えとは言わへんけど邪魔はせんといてくれる?」とか連休中すべてヒカリにささげつくしているお母さんタバスコは、もうここへきて切れかけている。
なお、ヒカリの攻撃とは、読んで欲しい本とかマンガを「読め読め」と押し付けてくることです。
攻撃をかわされると、ヒカリは案外にあかんたれでしょぼくれたりするので、お愛想程度に「おいピータン」のページをめくる。
それはマンガでした。
2ページほど読んだところで、ヒカリから「基本編」を手渡される。
基本編なるものがあった。

えっと、付き合いだして3ヶ月のアツアツの若いカップルがいて、明日からカレ(ヒロくん)の方は長期出張で(台湾)ー、名残を惜しんで「さびしいねー」「さびしいよー」とか言ってハダカで抱き合ってるのね。周囲に「C」って書いた小袋が3つ散乱してるのね。
「さびしいのは本当だけどちょっぴりうれしいって気持ちもあることがヒロくんに伝わりませんように」と女の子の心の声のセリフとして抱き合ってる二人のアップの絵の後ろのほうに浮かび上がっている。

ま、この辺はどなたにも心覚えのあるようなエピソードですね。恋人とのラブラブタイムはそりゃもう楽しいんだけど、やっぱ一人になる気楽さも捨てがたいよなー、おならも平気でできるしさーみたいな女の子のフランクな気持ちが綴られるわけです。

なかなか楽しいね、って読んでいるとヒカリが、「このカップルの話とちゃうねんで」という。

主人公はまだ登場していないらしい。


女の子の「やっぱ一人って気楽だなー」って日常が数ページにわたって綴られる、そのほんのひとコマに主人公「ピータン」初登場!
レンタルビデオ屋でトトロを借りるピータン。
女の子が、「あ、ピータンだ!」と気付く。

彼とよく行くラーメン屋にピータンは出没する。
二人でらーめんを食っていると、ピータンがその店にやってきて必ずピータンを注文する。だから「ピータン」。「ピータン」は「ピータン」であることを知らない。

ピータンは、若いカップルから見たら太ってみっともないおっさんにしか見えない。


そんなピータンの、実はちょっといい男振りが語られているのが「おいピータン」なのでした。

ヒカリにお願いして一冊だけ借りて帰ってきました。


んとね、ちょっとねピータンに惚れてしまった。
だってねー、いい男なんですよ、ピータン。 

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ピータン。
ええ男!
となりは、カノジョの渡辺さん。





なんか、恋のはじめのような気分だなァ。

ピータンのこともっと知りたい。

私の実家は京都市の西部にある。
南北の位置でいうと市内を東西に貫く大通りである四条と五条の中間くらい。
バスに乗るためにはどちらかの大通りに出ることになる。どちらにも徒歩7,8分かかる。
一本だけ家のすぐ西にある中通りを走るバスがあった。「47番 動物園・銀閣寺行き」。
このバスは、五条通から南北に走る中通りを経由して四条通に出てそのまま四条を東進、
河原町通で北上し、二条通で右折、再び東に進み岡崎公園、動物園前を経て東山の銀閣寺へ至るといういわば京都市の西部から東の端までの結構な距離を辿る路線バスだった。

小学生の私は夏休みにこのバスに乗って踏水会にも通った。(踏水会というのは、今でいうスイミングスクールみたいなもん。琵琶湖疎水のきちゃない水を引き込んだ天然の巨大なプール?を擁した巨大なスイミングスクール。海のない京都の小学生のほとんどは踏水会に通って水泳を習得したのではなかろうか)
岡崎にある踏水会までの所要時間は50分くらいあった。途中四条河原町という繁華な市街地を通過するので渋滞の分も含めるとそれぐらいの時間がかかるのだ。当時の私はやや車酔いする傾向があり、50分もバスに揺られると気持ち悪くなることがあった。気持ち悪くて座席から立ち上がれず降りる停留所を乗り過ごしてしまったことが2回ほどあった。
夏休みの、猛暑の京都の、まだ冷房設備のない市バスの50分は小学生には辛かったなぁ。

中学生になった私はこの47番のバスで通学することになった。
ときどき中学校前の停留所を乗り過ごしてしまうことがあった。停留所3つ分だから車酔いする間もない距離なのに。学校サボりたくてうっかりではなく、ちゃっかりと乗り過ごしてやった。
登校拒否中学生を乗せてそのままバスは東に向かう。朝の四条河原町を抜け、踏水会のそばを横目に、動物園前も通り過ぎて銀閣寺前に到着する。終点。学校サボった中学生は47番の市バスに運ばれてきただけ。人目を避けて誰もいなさそうな道を選んで山を登っていく。バスに酔ってややふらふらしながら。そして誰もこなさそうなお寺を見つけた。
銀閣寺のすぐそばにあるのに観光客の姿はひとつもない。山陰のせいか晴れているのに湿気ている風情のそのお寺で、学校に行きたくなかったある日のタバスコが身を潜めていたということ。一度ではない。何度くらいだろうか。季節はいつだったのだろうか。暑かったような気がする。もみじがきれいだった日もあるような気がする。雨の日もあったような気がする。十回くらいだろうか。なんで学校に行きたくなかったのだろう。家族にはばれなかったのだろうか。もう40年近くも前のことなので全部あやふや。
そんなことはもしかしたら私の空想の中の出来事なのかもしれないと思えばそう思えなくもないほどあやふやな、記憶の森の深いところにかすんでしまうほどの記憶。
そのお寺の名前が「法然院」と知ったのは山門のかすれた墨の文字を読んでのことなのか、ずっと後から知ったのか。そこに谷崎潤一郎の墓所があるのを知ったのは、大学時代のことだったか。「え?そんな有名な人のお墓があるの?あそこは私だけの秘密の隠れ場所やのに」と驚いたりした。
大学時代には地方から来た友人を何度か、「私だけのとっておきの京都案内」と称して法然院に連れて行ったことがあった。恋人っぽい男の子(岩手出身)を連れて行ったこともある。近くの哲学の道もあの頃はまだ静かだった。
その後は法然院とは縁が切れてしまう。結婚して京都を離れてしまえばもう訪れる機会は皆無のようなそんな場所になってしまった。47番のバスも知らん間になくなっていた。

そのまま時間だけがどどーんと流れて、再び法然院にめぐり合ったのは、高校のクラス会bbsで。
法然院の襖の引き手は僕の親父の仕事です、とbbs上で挙手して発表するN君。
私が知らなかっただけで法然院は知る人ぞ知る名刹だった(らしい)。そこは、不良中学生のただの隠れ場所になるような寺ではなかった。(勝手に私のプライベート・テンプルと呼んでました。友人にもそう紹介してました。)
N君のお父さんはそんな名刹の仕事をする職人さんやったんですね。
あやふやな記憶の森のその奥のかすんだその先に法然院のたたずまいを呼び起こしながら、いくら呼び覚まそうとしても襖の映像は見えてこない。登校拒否中学生はせっかくの名刹でただぼんやり時間をつぶしていただけ。なんだか学校に行きたくなくて、誰にも知られず時間をつぶす場所にそこを選んだだけでした。
13歳の私はなにを考えてたんでしょうね。目の前のしんどいことから逃げたかったんでしょうね。なにがしんどかったんでしょうねえ。もう何も思い出せないけど。

あそこにクラスメートのお父さんの痕跡があったのか。自分の日常の場所からはまったく隔絶した場所やと思っていた。もし知ってたら、そんな場所には行かなかったやろな、と私はふと思う。


N君の発言を聞いたのは二年くらい前になります。
機会があったら法然院訪れてみよ、と思いながらまだかなわずにいる。

この連休中に法然院に行ってきたで、N君のお父さんの作った襖の引き手見てきたで、とbbsで報告していたW君。

そして私のもとにW君からその際の写真が送信されてきた。
「Nに写真送ってないからタバスコのブログでこの写真アップしといてくれ。はよ してや」というえらそうな指令とともに。
私のブログは伝言板か~い! 

W君には実はひとつ借りがあるタバスコ。
指令を無視するわけにはいかない事情があるのだ。
W君、アップしたで。
N君、見てくれた?
写真だけちゃうで、法然院をテーマにしたエッセイ仕立てやで。
どやさ、この辺で勘弁したって。文句ある? 
605aa4d7.jpeg

法然院の襖絵
堂本印象作



953208e3.jpegこれでええの?

N君のお父さんの職人の技
プロフィール
HN:
タバスコ
年齢:
67
性別:
女性
誕生日:
1956/05/26
職業:
兼業主婦
趣味:
広範
自己紹介:
おもろいおばはん
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