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土曜日の午後、玄関のチャイムが鳴り、出てみると近所に住むカズキ君という男の子がそこに立っていた。
「おー、カズキ、どうしたん?」とおばはんはなれなれしい。
なれなれしいおばはんは若者に嫌われるものだということくらいはわかっている。分かっているけれど、あえてそのへんのおばはんらしい反応をすることもおばはんの分別の一つなのだ。カズキにはまだまだそこまでは分からないだろうけれど。

「明日、東京へ行くので挨拶に来ました」

カズキはこの春から東京の大学生になる。その旅立ちの挨拶に来てくれたのだ。
小学生時代に地域のスポーツ少年団に入っていたときダンナがそのスポーツ少年団の団長をしていたので、折に触れカズキは我が家に挨拶に来てくれる。高校に合格したときも、大学に合格したときも、息せき切って報告に来てくれた。

「母がちょっとさびしくなると思うのでよろしくお願いします」

彼の母親のチドリさんと私は仲良しの飲み友達なのだ。私のこの土地での唯一の友人と言っても良い、そういうお友達なのだ。

「よっしゃ、お母さんのことは任しとき」と胸をどんとたたいて請け負う。

四国の片田舎から東京へ出て行くという前日の18歳の少年。

ふむ、なかなかええもん見してもろたよ。おばちゃんは。

ま、ぼちぼちやっといで。


今週末あたりチドリさんを飲みに誘って上げなきゃな。カズキに頼まれちゃったしな。


春が来ましたね。

それぞれの人のもとにそれぞれの新しい季節が訪れているんでしょう。

私は、実は小さな別れを経験しました。
友人を一人失くしちゃいました。

私にとってはそういう春です。
ま、しゃあないな。


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NHKの「にっぽんの現場」(3月13日放送)
***************





「にっぽんの現場」は見逃すことも多いのだけれど、見るといつも深く心が揺すぶられる。

夕べの放送では、定時制高校のあるクラスの風景を追っていた。

定時制高校の入学者が増えているらしい。
新聞のラテ欄の短い情報だけを読んで、ダンナと「なんでやろね」と話していた。
私は、「不登校の子どもたちが行くのかなぁ。」と思った。

さまざまな事情で学校へ行けなるなる子どもたちは多い。その子どもたちは、別の場所での就学を試みる。例えば単位制の高校だったり。

私の友人にも子どもが不登校になった人が複数いるけれど、それぞれにその子どもが行けるであろう学校を探してなんとか高校卒業の資格取得を目指す。

そういう役目の一端を定時制高校がになっているのか、とまず私は思ったわけです。

なぜならフリースクールなどは、費用が結構かかったりする。
経済的事情でそういうところに行けない子どもたちの行き場所に定時制高校がなっているのではないだろうかというのが私の予想でした。


事情は少し違っていた。
公立高校の入試に落ちて、以前ならば滑り止めに私立を受けていたであろう子どもたちの、私立へ行く経済的余裕がない家庭の子どもたちが今定時制高校へ入学するという傾向が強まっているのだという。

格差社会の、ますますその格差が広がりつつあるという現実がそこに現れているのだろう。

定時制高校で学ぶ生徒の多くが、父親の失業や家庭の収入の激減に直面し図らずも定時制高校で学ぶことになったという事情を抱えていた。

昼間はアルバイトをし、学費はもちろん生活費も家に入れているという多くの高校生たちがそこにいた。

考えさせられることがいっぱいあった。

例えば、自分の努力ではどうにもならない環境があり、その中で、彼らなりに抱いている夢があり、その夢の実現に向けて努力をするということについて。


少し前に、山田太一さんが「あきらめることも必要」という発言をされたことについて、2ちゃんねるなどではその発言が物議をかもしたそうだ。


教師を目指している一人の女の子は、親には大学の学費を出せる経済力がないという環境の中で、アルバイトと勉学に努力を尽くす。
無理がたたって椎間板ヘルニアを発症したりもする。でもあきらめない。
アルバイトで貯めたお金は100万円に近づき、大学合格も掴む。

イラストレーターを目指している女の子がいる(この子美人だったなぁ)。
本当は専門学校に行きたい。でも無理とあきらめている。
親にそういう経済力がないことを当たり前のように受け入れ、そしてあきらめている。
目を吊り上げて努力しようという姿勢はなく「バイトしながら絵は描き続けます」と答えていた。

どこに正解があるわけではない。

たくさんのあきらめの中から掬い取るようにしてあきらめない気持ちが掴めるということもあるのではないだろうか。


ただ、親の経済力という、高校生にとってはどうにもならない現実の前で自暴自棄になっていく子どもがいるとしたらそれは哀しい。
経済的な格差が広がって良いことなど誰にとってもないと思うのだけれど。 





という日記をmixiに書いていたら、翠嵐高校の生徒会長君のコメントをいただいた。

続いてMちゃんという女の子からも。

Mちゃんはこの放送の中で中心的に語られていたイラストレーター志望の女の子で、日記中に私が「美人!」と書いている子。
「イラストレーターって言うより本当は漫画家志望です」って。

二人とも、番組を見てくれて、暖かい励ましありがとうございます、というコメントをわざわざくれたわけです。
Mちゃんは、私の日記にうれしくって泣きそうになったとまで書いてました。
私なんざ通りすがりのおばちゃんに過ぎないけど、おばちゃんの方こそ励まされたわけです。

そして、Mちゃんへのレスにはこんなことを書きました。


へええ、Mちゃんって、番組中にイラストを描いてた子?
小説も(そんなおおげさなもんじゃないと照れながら)書いてるって言ってた、おばちゃんの目にはすごく美人!って映った子?

まあ、それはご訪問ありがとう。

小説を書いてみたいと思う人間の中で絵が描ける人は今は漫画家を志望するって聞いたことがあります。
吉本ばななももし絵が描けたら漫画家になっていただろうと。

絵が描けないから吉本ばななは仕方なく小説を書いているらしい。

ほんまかどうかわからないけど、漫画の世界は今それほど才能のある人が集う場所だという意味だと思います。

絵心と文才と美貌と、ひょっとしたらMちゃんの手の中にはこの3つが握られているのかもしれない。少なくとも可能性はあるんだ。

18歳で、何物も手に中にあるとは思えない空虚感で彷徨ってる子も多いと思う。

18歳で何物も手の中にないことの空虚感が自分を育てるということもある。

18歳では何も決められない。
でも可能性は無限に近くあると信じられる貴重な瞬間であることはまちがいないんでしょう。

Mちゃんにとってもこの春は特別な季節なのでしょうね。

旅立ちに心からエールを送ります。

(あなた、本当に美人だと思った。高校生でメイクしてそこそこかわいいという子はゴマンといるかもしれないけど、すっぴんで美人と思わせられる子は稀。これ率直なおばちゃんの感想。ま、美貌がどれほどの価値があるかどうかは、あなたの生き方の中で決まることだと思いますけどね。とにかく幸多い人生でありますように!) 



テレビを見て、深く心揺すぶられ、それをネットの片隅でちょこっと語ったらこんな交流が生まれました。

ネットも捨てたもんじゃねーと思いました。

2001年から2002年は私にとっては大きな転機の時期だった。
ヒカリは大学を続けることになり、私自身は、ネットを始めたことで長い停滞と閉塞感のなかにちっこいながらも風穴が開いたような心持を感じ始めた時期。
フーコにとってはどんな時間だったのだろう。まだしんどい季節が続いていたのかもしれない。
2002年のお正月に会った後しばらく会わないままの数年が続いた。

2005年の夏休みに難波の駅近くの居酒屋で飲んだ。
ヒカリは大学を卒業していた。アイちゃんは単位制の高校を何とか卒業したもののまだ自分探しの暗中模索といった様子。
このときの二人の気分は「子どものことは心配したってしようがないねぇ」というものだったような気がする。

世間の基準で言えば二人とも子育て失敗人なのかもしれない。
ただ、負け惜しみではなく、失敗して損をしたとは思っていなかったような気がする。
二人で、いっぱい痛い目に遭ったことを報告し合いながら、笑えていたから。

「アイちゃんは、ずっとずっとフーコに評価されたくて評価されないことがつらかったんと違うかなぁ」
「うん、そうやろと思う。今なら少しわかる」
「私はヒカリをめちゃめちゃ誉めて育てたつもりやってんけど、あの子もまたどこかで評価されてないと思ってたのかもしれへん」
「ヒカリちゃんもとアイもどっちも母親の影響を受けすぎたってところがあるんやろねー、私らが悪かったんやな」
「それは確かにある。そやけどどこの親もみんな悪いとこだらけなん。それに気付けただけでも儲けもんやねん」
「そうなん?私ら儲けたん?」
「そうや、えら儲けやん」

そんなことを話した。


居酒屋の薄暗いボックス席で、向かいに座るフーコを見ながら、長い時間のことを少し考えた。
フーコはすっかり皺が増えていた。
私も彼女からそう見えていただろう。

11歳、小学5年のクラス替えで出会って、そのクラスで一番勉強のできるフーコと一番暴れん坊の私は実は反目し合うところもあったのだ。
彼女の家に遊びに行って、お母さんの叱咤激励にびびったのは、実は勉強のできるフーコより私が学級委員に選ばれたことをこのお母さんは気に食わないのではないだろうか、と私が勝手に気にしていたせいかもしれない。
放課後はいつも遅くまで学校に居残って遊び呆けた。私が遊びのリーダーになって。その放課後にフーコはいっしょに遊べなかった。塾やピアノのレッスンが毎日あったから。

11歳の子どもにもそれなりの悩みや悲しみはあったんだろう。
11歳の子どものボキャブラリーでは表せないから、その悩みや悲しみは言語化されたものとしては記憶に残っていない。

だから、あの時間を共有した者同士だけに分かり合えるものがあるのかもしれない。




フーコから来た久しぶりの手紙は、

「たよりありがとう、ずっとずっと手紙書きたいなと思っていました」という書き出しの手紙だった。
お正月には実家に帰っていたこと、でも時間と気持ちに余裕がなく私には連絡できなかったこと(どっちにしても私は帰省してなかったんやけど)、だけど、「いつも心のどこかにどうしてるかな、と思っています」と書いていた。


お父さんの発病から看病のこと、同時期にご主人もまた大きな手術をしたこと、その間に長男と長女が何とか自立したこと(アイちゃんは東京で働いているそうだ)、麦穂が中学生になったことが近況報告として書いてあった。
いまはずいぶん楽なった、麦穂は、山村育ちののーんびり屋さんです、とも。

そして、その手紙の中に何度も何度も「ゆっくり会いたいと思います」と書いてあった。

最後に書いてあったのは、最近読んだ本のこと。
「60才の沢木耕太郎が書いた『無名』」を読みました」と。
「私は21才のとき25才の沢木が書いたノンフィクションを読みすごく感動したのです。60才の沢木を読んで、改めて25才の沢木を理解しました。こんなことを考えているのが51才の私の近況です。
あ~~、会って話したいな。」

というところで長い手紙は終わっていました。

ありきたりな恋愛をして普通に結婚して、新妻のフーコと私が、フーコの新居で他愛なく笑いあった日から25年以上が過ぎた。

「こんな結婚生活になるとは夢にも思いませんでした。」
手紙の中にはそんな一行もあった。

ほんまやねぇ、こんな結婚生活になるとは夢にも思わへんかったねぇ。

会って話したいと何度も言うフーコに、さて、私はフーコに話したいと思えるような生き方をしてるのかな、と自分の生活を振り返ってちょっとたじろいだ。
こういう刺激を与えてくれるところがやっぱりフーコなんだな、と思いもする。

今年中に会えたらいいな、と思います。

おわり。
フーコはヒカリよりひとつ下の男の子と、年子で女の子を産み、その子供たちが小学校へあがる頃大阪府下の唯一の村と言われる山村に移住した。
ご主人も仕事を辞めて、自給自足の生活を夢見ての移住だった。
一度その山村の家に遊びに行った。17年位前になるのかなぁ。高校時代のもう一人の友人といっしょに。
トイレが家の外にありもちろん水洗ではない。真夜中のそのトイレにどうしてもいけず、夜通しおしっこを我慢しながら、3人で夜が明けるまでしゃべり続けた。
あ、そうだ、翌日帰ろうとしているところでたまたまフーコを訪ねてきた彼女のお母さんと久しぶりにお会いした。小学生の私をびびらせた教育ママゴンのお母さん。
私の顔を見るなり、「ひゃあ、アサカワさん、元気にしてた?」と大声をかけられ、「頑張ってるっ?」と質問ではなく叱咤激励といったなつかしい調子の声をかけていただいた。
フーコとこのお母さんの間にあったであろう母娘の確執も時間がやわらかくほぐしてくれたのかもしれないとそのときフーコとお母さんの様子を見て私は思った。

ご主人がその山村移住にどれくらい積極的だったのか、消極的ながら彼女の意向に引きずられてのことだったのか私にはよくわからなかったけれど、そのときは大変そうながら希望に燃えての新生活だったのだろう。彼女はその土地で三人目の子どもを出産した。生まれた女の子に麦穂という名前を彼女は付けた。
ご主人が数年後大病に見舞われてしまったことは、不運なできごとに過ぎないのかもしれないけれど、その不運のせいだけではなく山村での自給自足の生活は困難を極めたようだった。結局彼女が働きに出ることになった。
一年に2回くらいの手紙だけの付き合いの数年間があり、それは全然違う色合いかもしれないけれど、私にとっても彼女にとっても停滞と諦念の時間だったのではないだろうか。

2001年の5月の連休に久しぶりにフーコと会った。
河内長野市内の彼女の職場の近くでだったか。お昼ごはんを一緒に食べるくらいの時間しかなかったのだけれど、そのとき私たちはどうしても会いたかったんだと思う。
私にとってのその5月は、なんというか、そうだなぁ、今から振り返ってみて人生で一番しんどかったかもしれない。
ヒカリが大学に入って、中学2年のときに発症した拒食症がその入学を機に好転の兆しでも見えるかというかすかな希望も打ち砕かれ、私は途方にくれるといった態だったのではないだろうか。
そして、フーコも、長女(アイちゃん)の不登校に悩んでいた。
私とフーコがお昼を食べているところにその長女がやってきた。ファッションにとても興味があるといった、普通の女の子のように私には見えた。
普通の女の子のアイちゃんにとってはもしかしたら山村への移住は、親の意向に従わされたという思いの残るものだったのかもしれない。かつてフーコが親の意向に無理やり従わされた過去を持つこととそのことを考え合わせるのは私の穿った見方かもしれないけれど。
アイちゃんの不登校には、何か彼女の生きにくさの表出といったものがあるような気がした。でも、そのときはそんな感想を私は口には出さなかった。
私はヒカリの受験や入学の経緯と入学後の混乱具合を話し、フーコもまたアイちゃんとの関係の齟齬を話し二人でしょぼくれてお昼を一緒に食べた。
別れ際、フーコがそのときの私を評したことばを今も忘れていない。
なんだかとても印象が変わった、がっかりした、というようなことを彼女は私に言った。
私がそれを忘れていないのは、「ああ、まったくその通りの私なんだろう」と思ったから。

以前に何かの折に書いたことがあるけれど、小学5,6年時の私は、人生の最盛期だったのだ。
地球は私を中心に回ってると思っていたくらいなのだから。
その時代を知っている友人から見れば、そりゃぁあのときの私はなんとも情けない様子だったことだろう。フーコもまた情けない状態の自分を私のしょぼくれた姿に重ね合わせていたのかもしれない。

翌年のお正月に京都で会った。そのときもあまり時間がなく、どこかの公園に車を停めてその車の中で缶コーヒーを飲みながらしゃべったと思う。
お互い、5月に会ったときよりはほんのちょっぴり状況が好転しているような(ヒカリは入学半年で退学を決めたものの、秋になってもう少しがんばってみると言い出していた)、でもそれはほんのわずかだけれど、といった報告をしあい、そしてお互いを励ましあって別れた。



うわ、まだ終わらない。つづくのだった。
数日前のことになるのだけれど、フーコからの手紙を受け取った。
年末に、喪中欠礼のはがきを受け取って、お父さんが亡くなられたことを知った。
年賀状を出せない代わりにお悔やみの気持ちを込めて手紙を出していてその返事。
私が思い出せるフーコのお父さんは、多分まだ40代ごろの姿だろう。
彼女の家に遊びに行くと、時々姿を見かけた。
穏やかな、口数の少ない人。あまり強い印象はない。ただ、フーコがお父さんを大切に思っている様子は感じられた。それは彼女の母親への反発との対比として私にはそういう風に見えたということかもしれない。

小学5年生で同じクラスになって以来の長年の友人。
私にとっても彼女にとっても一番古い友人だろう。(手紙の中にもそんな文言があった、「私たち40年前からの友だちなんだねぇ」と)
フーコはそのクラスで一番勉強ができる女子だった。
勉強だけじゃなく、体育も音楽も何でも素晴らしく良くできた。そうだ、書道も段持ちやった。
お母さんは、教育ママゴンだった。
フーコの家に遊びに行くと、そのお母さんから「アサカワさん!勉強してるっ?」と、これは質問ではなく叱咤激励のような口調で声をかけられるのが怖かった。私は自分の母親からもそんなことは言われたことがない。
そのお母さんの強い意向でフーコは中学は私立へ行かされた。(行かされた、という印象)
私は地元の公立中学。そこで離れ離れになった。
私立中学のピアノ科で、ピアニストになるべく鍛錬していたはずのフーコは、3年生のとき地元の公立中学に編入してきた。
久しぶりに会うフーコは普通の女の子になっていた。
小学校のときの、何かとがったような鋭い感じがなくなって、勉強も体型も普通の女の子になっていたのだ。
彼女はそのとき、「私立の中学で私はバカになってん」というようなことを言ったように記憶している。お母さんの意向に従うことをやめちゃった結果ということのようだった。もう、ピアノは見るのもいや、と言っていた。
バカになっちゃったフーコと私は同じ高校へ進学し、同程度の、だけど別々の大学へ進学した。

高校2年のとき私とフーコは二人だけで北海道一周の旅をした。
計画は全部フーコが立てた。大きなリュックを担いでユースホステルを渡り歩く、いわゆるカニ族スタイルのワイルドな旅行。それは彼女の嗜好だった。彼女をピアニストにしたかったという母親の嗜好とは真逆のスタイルを彼女は選択しているようにも見えた。
大学時代にはもっと本格的なワイルドな、放浪といえなくもないような旅行へ彼女は一人で出かけて行った。もう私を誘うことはなかった。(高2のとき程度のワイルドさにわたしゃついていきかねて途中で喧嘩して別行動をとったりしちゃったこともあった)

外国へもそんな調子で出かけて行ったりしてた。

つかず離れずの関係。
離れていてもいつもなんとなく意識しあうところはあったかもしれない。
大切に思い合っていると言い切ってしまうには、若い頃の感情はそう簡単ではないところもあった。
同じ時期に、まあ普通の恋愛をして、同じ時期に結婚しちゃった。
私はともかくフーコが普通に恋愛して普通に結婚しちゃうのには少し驚いた。
恋愛をし始めたとき、一度夜遅くに私の家に来たことがあった。当時私の部屋は、外階段を使うと出入りが自由にできる場所にあり、彼女がやってきたのは深夜だった。恋をし始めた女の子特有の高揚でフーコはなんだか一杯しゃべっていった。一杯しゃべった後で少し照れていた。
彼女は、就職した会社の先輩社員と恋愛し職場結婚をし、寿退社した。
高槻にある彼女の新居に遊びに行ったのは、暑い盛りだった。普通に恋愛をして普通に結婚しちゃったフーコと私の、それまでのこととそれ以後のことを考えるとき、あの夏の日盛りの中、特別な屈託もなくフーコの新居を訪れた日のことが妙に象徴的に思い出される。51歳の今の私がその日を象徴的に思い出してしまう。
あの日には、そんなことは思いもしなかったけど。

つづく。
プロフィール
HN:
タバスコ
年齢:
67
性別:
女性
誕生日:
1956/05/26
職業:
兼業主婦
趣味:
広範
自己紹介:
おもろいおばはん
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