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ドラマ「四つの嘘」で、いっけいがカノジョ(きみちゃん)に送ったメールが間違ってブッキー(いっけいの妻)に送信され、浮気が発覚するというエピソードがあった。

「渋谷のお寿司屋に行って、そのあといっぱいエッチしようね」たらいう内容のメール。

そんなメールを間違えてよりにもよって妻に送信してしまうなんてそんなことほとんどありえんことちゃうん?と思いつつも、このドラマのおもしろさにそういう細部は許して見逃す。それにいっけいはそういうことしそうなゆるさもかもし出してるし。

一昨日の夜、私がネットをし終わってリビングに戻るとダンナが「さっき、キミの携帯が鳴ってたで」と言う。

こんな時間に誰からやねん。

と、そんなことを彼が思ったかどうかはわからない。
思ったように私が感じてしまうとしたらそれは私に何か後ろ暗いことがある場合であろう。
幸か不幸かそういうことはないので、ダンナの目の前で携帯を開いてみる。
送信者名Mとなってる!
Mって、それはダンナの名前。

「キミからやん」と私が言うと、ダンナが「えっ?!」と驚愕の表情。

このメール開いてもええのかしら?一瞬ためらったのち開いたった。

ダンナはなにやら放心している。目が泳いでいる。現実が把握できていない様子。


○ちゃん、明日はいっぱいエッチしようねっ揺れるハート


って書いてあった!……らおもろかったやろなぁ。


そこにあった文面はこういうの。

案ずるより産むが易し。
なんとかなりましょう。
なんとかしましょう、二人で。


こういうものでした。


なんか微妙な文面といえば微妙?

「なんやねん、これ」と私が言うと、ダンナはやっと現実が把握できたらしく、「あれぇ、ヒロノブくんに送ったはずなんやけど、何でキミんとこに届いたんやろ?なんでやろ?なんでやろ?」と謎の渦の中でまだ半分たゆたっている模様。

ダンナはA型でこういうミステイクはしない人間だと自負している。
瑣末なことはきっちり出来るタイプなのである(しかしながら大局は見誤りがち)。


ヒロノブくんは、スポーツ少年団の総合監督でありダンナは団長。
運動会にスポーツ少年団主催のバザーを催すに当たりいろいろ問題山積で二人で苦慮している最中のやり取りらしい(保護者の母親が面倒くさがってしないことをおっさん二人でやらされているらしい)


なああんや。
おもんな。


しかし、こういうことあるんですねー。

A型のダンナがしてしまうってことはB型のワタクシはその数倍してしまう可能性がありそうってことやん。

気をつけようっと。(なにを?)


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今週は夜のバイトがお休み(塾もお盆休みなのだ)。

だからちょっと気が緩んで夕べは1時半まで夜更かしした。

ヒカリとイチャイチャしたり、腰が少し具合悪いので一時間入浴で腰を温めたり。
お風呂から上がるとヒカリはもうおねんねしてた。(25才の娘におねんねはないやろ!)

急に思いついて山田さんのドラマを再生してしまう。


「やがて来る日のために」


先日のネット友達のウハメラさんとベアトリーチェさんのライブでウハメラさんの作った「訪問看護」という歌を聞いて喚起された気持ちから再び見たくなったというわけ。

フリーライターのウハメラさんは、取材で聞いた訪問看護士さんのお話からその歌を作られたそうです。

それは、余命宣告を受けた働き盛りの男性が、死までの短い時間を家族とともに特別なことをするためではなくそれまでのように暮らすために在宅介護を望み、訪問看護士のもとを訪れる、そういうシーンから始まる歌でした。


大げさなことばは何も使わないでウハメラさんはええ歌にしてはりました。タバスコからはさんざんあほぼけかす、スケベオヤジと日頃罵られているウハメラさんですが、こんなええ歌を作るとは!他人とは真に思いがけない存在ですね。
ほんまにええ歌でした。

ま、その歌のことはあっちゃへ置いといて、そこから思い出してこのドラマをもう一度見たくなったわけです。

このドラマは訪問看護士と、彼女が関わる数人の在宅患者との交流を描いたものです。
その中に、10代で死んでゆく少女のエピソードがありました。

自分の病名を正確には知らされていなくても、だんだん弱っていく少女は自分の死期を徐々にわかって行ったのでしょう。
最後にどうしてもこれだけはしたい、という望みを訪問看護士に訴える。
看護士は、「もっと元気になってからにしましょう」と偽りの希望を与える。けれど少女には元気になる日が来ないことはわかっている。かなえてやりたいと思う。少女は切実に最後の望みを訴える。
その少女がどうしても死ぬ前にこれだけ、と望んだこと。

それはかつて通った高校、通学に使った駅、友達と入ったコンビニを見たいというもの。

たった10数年しか生きられなかった少女にとって、それらが輝かしい思い出。死に行く前にもう一度見ておきたいものだった。

無理をして連れて行ってもらう。

駅で、その駅に入ってくる電車を、そこで乗り降りする人を、ドアが閉まりまたその駅から出て行く電車を少女はホームから愛おしそうに見送るんです。

もうもうそのシーンは何度見ても何度見ても今思い出しても泣けてしまう。

特別な、悲劇的な恋愛で演出しなくても人を感動させるものがそのシーンにはありました。死に行く少女の、電車を愛おしそうに見送るその眼差しだけで。

で、ついそのドラマを最後まで見てしまい、びちゃびちゃに泣いてしまい、寝る前にもう一度顔を洗う羽目になりました。

そんなわけでねぼすけタバスコが珍しく夜更かしをしたという話でした。


えっと、ウハメラさんの作った歌に、私は同質の感動をもらいました、とこれもついでに書いとこか。


夕べは午前4時まで起きてた。

とはいえ午後11時から1時半までは寝てたんやけどね。

真夜中に起き出してこっそりお風呂に入ったり、台所でコーヒーをこっそり入れたり、ついでにこっそりタバコを吸ったりと不良少女ぶりがかいらしいタバスコであった。

ヒカリはいま、「図書館へ行く」と言ってミニバイクで出かけました。

ダンナはどこ行ったんやろ?

と思ってたら今帰って来た!
別に帰ってきて欲しいわけじゃなかったのに。




まだ夏の雲がぐんぐんと盛り上るみたいに真っ青な空の一隅を占拠してる。


今夜はダンナのお友達夫婦とビアガーデンに繰り出すことになってる。
ヒカリはお留守番。

「トマトとチーズのオムレツ作って」とかいらしいリクエスト。

明日は一人で海へ行くんだって。

友達のいないヒカリはこの夏休みも暇をもてあましお母さん頼みの休暇を過ごしている。

人並みとか一般的の基準にあてはめると「なさけねぇ」状態の25才のヒカリであるけど、そんな基準は4年ほど前にすっかり捨てた(つもり)。

この人のペースで生きろ、それでいいと思ってる。
けれど思いすぎてもあかんにゃなと考えたりもさせられる。

親は時には鬱陶しいことも言わなあかんのかな。

私は人に鬱陶しいことを言われるとへにゃへにゃになってしまう。
立ち向かえなくてただひたすらへにゃへにゃになる。

ヒカリをついつい世間の鬱陶しいことを言う人たちから庇護したくなってしまう。
それはつまり、私に降りかかる鬱陶しいことから自分を回避させたい代替行為に過ぎないのかもしれない。

この人が私の犠牲者であることはある一面その通りだと思う。

多分どんな子どもも親の犠牲になっている、そういう言い方もできる。


12年間、この子が生きるバランスを崩してからの私が考え続けてきたことを小説にできないだろうかと考えて書いている。

体験談ではなく、私が見た風景をことばにできないか、それも小説と言う形にできないかという野心が発端。
それはつまり私という人間を丸裸にするってことなんだけど。


タイムリミットは8月31日と設定している。

その日までに物語としてはエンドマークがつけられる状態までたどり着きたいということ。

残り一月で推敲してなどと頭の中の予定表にはそう書いてある。

夕べも真夜中に書いていた。

5行ほど書いて疲れて閉じた。

夏休みの宿題も、予定表どおりに済ませたことのない過去を持つタバスコが、この夏休みの宿題を期日までに終えられる可能性は非常に小さい。

人はそう簡単には自分を超えられへんもんやなァ。

52歳の夏、改めて思い知るタバスコであった。




週末外出中に、定期購読している「考える人」という雑誌が届いていた。
山田さんの上質のエッセイが連載されているのに田舎の書店では滅多にお目にかかれない種類の雑誌なので定期購読することにしたのだ。

で、今回のエッセイのタイトルが「アメリカの夜」。

トリュフォーのこの映画を人に薦められたのをきっかけに、ご自分でも見直されて、その周辺のお気持ちを書かれている。
そのエッセイの内容はちょっと横へ置かせていただきます。(ごめんなすって)

「アメリカの夜」を私は見ていない。
試写会のチケットは手にしたことがある。
ある人に、「いっしょに見に行きましょう」と誘いの手紙とともにもらったことがあるのだ。

長形4号の白い封筒、内側に濃い紫色の用紙が重ねて製袋されている、皆さんもよくご存知の、オーソドックスな、今となってはなんとなく郷愁をそそられるあの白い封筒。

16歳の私が初恋の片想いの人に決死の覚悟で告白のラブレターを出し、その返信として届いたものでした。封筒の中に「アメリカの夜」の試写会のチケットが入っていたのだ。

手紙が届いてから約束の日まで2週間くらいあったのかな。
どこに行くにもその手紙を持ち歩いていた。鞄の底にしのばせて、外出先の、ほんの短い一人になる時間に取り出して何度も何度も読み返した。
字が、まず字がすごく素敵だった。
その人の字を見たのは初めてだったんだけど、めまいがするほどその字が素敵だった。それ以外になんと説明したらいいんだろう。素敵な字。
映画がとても好きであること、今までにどんな映画が印象に残っているかなどが、その素敵な字で結構な量書いてあった(「アラバマ物語」「ベン・ハー」「ラストタンゴ・イン・パリ」なんてタイトルが手紙の中にあったことを思い出す。もっとたくさんの映画のタイトルが列挙してあったけれど思い出すのはそれだけ。)

それと、大学受験に失敗して浪人が決定しちゃったこと、だから当分は恋愛とか考えてられるような身分じゃないことが断わってあって(つまりもうその時点で振られちゃってるわけなんだけど)でも、このチケットは2枚あるから「映画いっしょに見に行きましょう」って書いてあったのだ。
チケットは、皺にならないように本の間に挟んでおいた。その本のタイトルを思い出そうとするんだけれど思い出せない。(残念。)

高校1年生から2年になる春休みのことです。
約束の日は雨が降ってました。
冷たい雨だった。
阪急の西京極のホームで待ち合わせていたんだけどベンチで腰掛けていると私の吐く息が白かった。寒かったんだけど私はボタンダウンのシャツにニットのベストしか着てなかった。多分2週間の間考えに考えて「これを着ていこう」と決心していて、その朝ことのほか気温が低いのに臨機応変に対処できなかったと思われる。
その人は薄いカーディガンを羽織っていた。
シャツはどんなだったか覚えていないけれど、下半身はスリムのぼろぼろのジーパンだった。
実はこの人のぼろぼろのスリムのジーパンに恋をしたといっても過言ではないのだった。
西京極の駅から阪急に乗ってたった一駅の桂で下りて、高校まで15分くらいの距離があった。その道を私はひたすらその人の下半身を見つめて歩いていたのだ。16歳の秋から冬、冬から早春にかけて。

阪急に乗って烏丸で下り、試写会の時刻までまだ時間があったので地下街の喫茶店に入った。
なんだか冷え冷えとした店の片隅でコーヒーをはさんで座って、何を話したのか全然覚えていないんだけれど、なんでか延々話し続け、試写会の時間が過ぎてしまってもなぜかしゃべっていたのだ。(だけど会話が弾んだという記憶もない。自分に思いを寄せる小さな女の子の気持ちに報いて上げられないのがかわいそうでその人は席を立てなかったのかなぁ?)
試写会がすっかり終わってしまうほどの時間までしゃべっていた。
お昼近くになって、「バイトがあるから」とその人とは烏丸の駅で別れた。
私の手元に「アメリカの夜」のチケットが残っていた。初恋の失恋の形見。

でも、そんな感傷にひたる間もなくトイレに駆け込んだ。冷えて冷えて、おしっこ行きたくてもう漏れそうで・・・

見ることができなかったアメリカの夜はその後も見る機会はなかった。

山田さんのエッセイの中に「1973年の作」という文字を見つけて、はいはいその通りです。
あれは、1973年早春、タバスコ16歳の出来事でございましたとも。


ってことは1973年3月と11月、この年タバスコは1年に二度失恋してるんだ。
なんてこったい(11月の失恋については割愛)。


しかし、52歳の今となって思うのは、失恋はしとくもんですね。
たくさんたくさんしとくもんです。

10代の失恋の思い出が(その思い出から得たものが)、タバスコのその後の生きる支柱になってるような気がしないでもない。そういうところ無きにしも非ず。


「アメリカの夜」見てみようかな、なんて思ってしまいました。

あなたのパソコンで俵星玄蕃は変換されますか?

「たわらぼしげんば」で変換させてみてください。

私のパソコンは変換します。
単語登録してあるからね。


私と俵星玄蕃の付き合いは長い。

幼稚園のときに遡ることじゃろう。

母が三波春夫先生の追っかけをしてましたから。

京都会館とか南座とか、30代の母が三波春夫の実演ショー(当時はコンサートだのライブだのってことばはなかった)に、幼い私を連れて出かけていたのでしょう。結構覚えている。舞台の上のキンキラ衣装の三波春夫。
母は三波春夫を「三波さん」と呼んでいた。
母が慕う三波さんを幼い私も慕わしく感じていた(模様)。


それが幼い私へのPTSDとなったのか(意味ちゃうけどね、なんかそういう感じ。心的外傷ではなく心的刷り込み?)三波春夫には何か特別な思いがずっとずっとある。はっきり言って好きなのである。

2000年の秋ごろ、何か抗しがたい激情に駆られるようにして私は三波春夫先生のCDを買った。

「『俵星玄蕃』をものにしたい!」

全編10分以上にわたる浪曲歌謡の大作を朗々と謳いあげる三波春夫の勇姿がきっと私の心の奥の底に特別な輝きを放ちながら、しかしその輝きはあまりに深い部分に封印され意識しなかったものが、あるとき意識の表層に立ち上るようにして私をある種の激情に駆り立てたのだと思われる。

「『俵星玄蕃』を全編完全暗記したい!そして、朗々と謳いあげたい!」


その衝動が2000年秋のことだったようだ。

エンドレステープにして聞きまくる。

掃除のとき大音響で家中に響き渡らせながら。
あるいは車の中で。

夢中で聞いていた。何かに憑かれたように。


人があるものに常軌を逸して夢中になるとき、それにはきっと何か理由があるものです。あるものなんです。

当時の私にも理由があったんでしょう。
そりゃあったでしょうね。と遠い目になる。

理由は何であれ、取り付かれたように夢中で聞いて、気が付いたら完全暗記してました。


2001年、年明けて春が来てヒカリは大学生となり神戸へ。
その地へ私は訳あって毎週通う羽目に。

深夜の高速をひた走る私を励ましてくれたのが三波さんの「俵星玄蕃」だったのだ。



槍は錆びても 此の名は錆びぬ
男玄蕃の 心意気
赤穂浪士の かげとなり
尽す誠は 槍一筋に
香る誉れの 元禄桜

姿そば屋に やつしてまでも
忍ぶ杉野よ せつなかろ
今宵名残に 見ておけよ
俵崩の 極意の一と手
これが餞け 男の心

打てや響けや 山鹿の太鼓
月も夜空に 冴え渡る
夢と聞きつつ 両国の
橋のたもとで 雪ふみしめた
槍に玄蕃の 涙が光る



この歌にね、ものすごく励まされた時期があったわけです。

これ歌の部分だけですけど昨日の日記に書いた浪曲の部分とか語りの部分とかね、車を運転しながら朗々と謳いあげるわけです。
めっちゃ慰められたんです。

俵星玄蕃、私にとっては特別な特別な歌なんです。

プロフィール
HN:
タバスコ
年齢:
67
性別:
女性
誕生日:
1956/05/26
職業:
兼業主婦
趣味:
広範
自己紹介:
おもろいおばはん
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