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今したいのは、一人旅。

電車に乗って山を深く分け入るようにして進んでいくと、谷あいの小さな駅に着いて、そこから30分ほど歩くとぽかんと古い宿がある。
そこを目指して出かける。
昔に読んだ小説の中でほんの少し触れられていただけの宿。
記憶のかけらを繋ぎ合わせてやっと探し出して、ちゃんと事前に電話で予約してたどり着くわけ。
主婦は行き当たりばったりの旅などしない、できない。
宿賃も事前に聞いておかないと落ち着かないし、税、サービス料込みかどうかも確かめておきたい。

ううむ、小説ではわけありげな風情の女将が出迎え、その物語の怪しげな雰囲気を盛り上げる脇役としてええ味を出していたというのに、ただのこぎれいな中ばあさんがあっけらかんと出迎えてくれたりする。
そもそもそのヒロインは行き当たりばったりでその宿にたどり着いていたはずだ。
なにか人生に生き迷い、ひょっとしたら死出の旅という雰囲気が無きにしも非ずだったのかもしれない。
もちろん予約もしていないにちがいない。財布の入った小さなバッグひとつ持っていただけ。

しかし主婦の旅はそういうわけにはいかない。

宿の備え付けが変な臭いのするタオルだったら嫌だなと思ってバスタオルまで持参している。
インスタントコーヒーも持っていっておこうなどと思いついて、あいにく携帯用のスティックタイプを切らしてるもんだから、ラップに一杯分ずつ包んで、それを3個もこしらえて頭痛薬と便秘薬を入れたポーチの中に隠し持っていくという周到さ。ついでにカップラーメンも入れとこか。
だから大荷物。たった一泊の旅なのに。


部屋に通される。
窓をあけたら風呂場のボイラーが視界を半分遮っていたりする。
小説のなかの女の部屋からは山の端にぽっかり浮かぶ月が見えたりしたはずなのに。

でもそんなことぐらいで私はがっかりなどしない。
人生至るところにがっかりだらけだった。
がっかりの免疫は十分ある。これくらい屁の河童だ。

しかし、夕食で出された山菜の天ぷらは、想定外にうまかったりする。
これも鞄に隠し持ってきた缶ビールを開けてことのほか贅沢な気分に浸る。

主婦の贅沢はこの程度で手に入る。

夜更けて、谷あいを流れる渓流を望める露天風呂に向かう。
なんだ、どうせ月のない夜だった。
月のない分星の瞬きががあざやかに見えたりもする。

女一人の感傷旅行気分を盛り上げるべく、星に願いをかけてみる。
何を願ったかはひ・み・つ。

そうだ、思い出した。確かこの宿の近くに「おいとけ様」と地元の人たちに慕われているお地蔵様がある、と小説の中に書いてあった。

おいとけさま伝説の、あの「おいとけさま」。
人生の中で背負いきれない荷物を「ここにおいとけ」とその地蔵は悩みや秘密を抱えた者に語りかけてくれるという。

悩みや秘密のひとつやふたつ探せば私にもある。
背負いきれないほどのものでもないけれど、おいとけ様にお預けしていってもよさそうなものならおいとくか。

などと考えているうちにすっかり湯にのぼせてしまう。
低血圧の私は油断するとすぐに湯に中たってしまうのだ。

気持ち悪くなってふらふらと部屋に戻り、そのまま布団に倒れこむ。

宿の部屋で作家ごっこするつもりで重いのを耐えて持参したノートパソコン「ブンちゃん」の出番なし。
持参した缶ビールも3本飲み残したまま。(そら大荷物にもなるわ)


来週あたり、ホントに出かけてみるかなぁ。
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7年も前になるのだけれど、山田太一さんの講演会で、講演後に聴衆の質問に先生が答えてくださるという時間が設けられていて、だれぞの質問に答えられての流れの中で、「魅力的な老人の俳優さんが少ない。だから私は緒形さんにお会いするたびに『早くおじいさんになってください』とお願いしてるんですよ」と笑いながらおっしゃったことを覚えている。7年前だから緒形拳は64歳だったのだろうか。先生は67歳かな。
山田さんの中には魅力的なおじいさんの姿の緒形拳に託したい老人のドラマがおありなんだろうとそのとき私は勝手に想像した。いつの日か魅力的な老人を緒形拳が演じ、それを堪能できる日が来ることを確信していた。
ここ数年はご自分の書く気力と緒形拳の加齢の塩梅とを換算して、焦りにも似たお気持ちがあったのではないだろうかなどと、僭越ながら思いを馳せたりしていた。

2年ほど前に60代後半の老人の孤独を描いたドラマが緒形拳主演で作られはしたけれど、多分先生は、まだまだこういうんではないんだな、と思われていたのではないかと私は思っている。そのドラマ自体ちょっと残念な出来だったし。

先日三國連太郎が新作映画の宣伝のためだろう、ワイドショーに姿を見せていた。
85歳、まだまだ美しく俳優としての気力も十分お持ちのような姿だった。
私は、三國連太郎もかなり好きなのであるが、85歳の三國連太郎を見て、改めて思ったのは85歳の緒形拳を永遠に私たちは見られないということへの残念さだった。

神様っていないんだな、と思うね。

何で緒形拳を持って行っちゃうんだ。もっと他に持っていってくれちゃっていい輩はいるだろうに(特に永田町あたりには)。

まったくもって緒形拳の死に関しては私ははらわたが煮えくり返っちゃうという思いに襲われてしまう。

まったくもったいない。もったいなくて腹が立つ。


そんな思いで遺作となった「風のガーデン」を見ている。

おもしろいんだけどさ、私はやっぱり倉本聰って本質的に好きになれないんだなと思ってしまう。

この人は決定的に山田太一とは違うということに改めて気がついた。
山田太一なら絶対出てこない台詞を緒形拳が口にする。

遺作となったこのドラマで、その一言が残念で仕方ない。

9月28日に地区敬老会を終え、締め切りまで残り2週間を切った!という切羽詰った気持ちで最終推敲作業に突入。
切羽詰ってるのに、分館長から、「あらかたの収支報告、早めにつくっといてな」とか言われたりするかわいそうなタバスコ。
「締め切りが!」と言いたい気持ちをぐっとこらえ、「えへへへ。承知いたしやした」と答えるもけなげで我ながら泣けてくる。

地方文学賞応募を目論んでいるなんぞ恥ずかしくって口が裂けても言えねえ言えねえ。

ダンナにもそんな言い訳効かねえ。

つつましく主婦業にいそしむタバスコであった。

だけど、ううううう、こんな時期に来て字数が大幅にオーバーしてることに気がつくボケ振り。

だって、30×30(字)で書いてたものを、原稿用紙枚数に換算したときの作業にミスがあったなんて予想してなかったんだもん。(設定は20×20(字)にしたはずなのになってなかったらしい。なんでやねん!理由は今もってわからず。ヒカリに聞いたら、多分おかあさんの操作ミスってひとことで片付けられちゃったんだけど)

とにかく、15枚くらいオーバーしちゃってるんだ(どんだけ換算ミスしてるねん!)!

とにかく削らなきゃ!

削ろうと思えばどこもここも削れるような気がしてくるから哀しい。

あわわわわという気持ちで過ごした2週間。
10月10日が締め切りという、その朝何とか仕舞をつけて郵便局から発送完了(当日消印有効)

その翌日から名古屋へ掃除婦として赴く。
でも、今回ヒイちゃんのお部屋はなんと65パーセントだったのだ!

前日電話でヒカリに、「お部屋どう?」と聞くと、「ううむ、65パーセントかな」という意味不明の答え。

「それは散らかり方が?片付き方が?」と聞くも要領を得ず、「お母さんが見て判断して」ということだったのだ。

そして私は、「ううむ、65パーセントだな」と見て判断した。

これ以上のことはうまく説明できない。とにかく65パーセントだったのだ。(それはやや喜ばしい数字であったということだけは付け加えておこう)


土曜日、日曜日をまなまな娘のヒカリと名古屋で過ごし、月曜日の朝名古屋を出て大阪へ、そこでちょいと野暮用をこなし夕方の新幹線に飛び乗って帰宅したのが7時半だった。

やっとこ通常の主婦のような時間がそこから戻ってきた。
そして、今週が始まり、年賀状のサンプル作りなどを鼻歌交じりでこなし、ここ一ヶ月くらいの主婦業務怠慢期のツケをぼちぼち支払いつつの日々を乗り切り、昨日、今日は念入りに念を入れた掃除と衣類の整頓などをこなし本日夕刻、なんだか久し振りにほっとする時間を手に入れたのだった。

友人に出したい手紙もあるし。

その夕刻のぽっかりした時間に、しみじみと思ったものだった。

ああ、私はかなり幸せな52歳を生きておるのじゃなかろうか。

11月の末には友人との温泉旅行の計画もある。
いつもながらの松山と西宮の友だち。

「お姫様懐石プランっつうので16,800円、これでどう?」と夕べ友人からメールが来ていた。
「ううむ、やや予算オーバーじゃがええじゃろ、それにすべ」。


ちょいとばかしええ気にさせてくれる男友だちの一人二人いないでもなし、特に暴力的でも高圧的でもない、どっちかっていうと物分りの良い、っつうか言いなり?のダンナがいて、お母さん大好きなどと言うてくれる娘(26歳、恋人なし)がいて、おお、これが幸せというものだ、といえば言えなくもない、けどこんなもんを幸福だと思うては女が廃るとまだうそぶいたりする若さは持ちこたえているらしい。

悪くないかもしれない。

今夜はそれくらいの気持ちで留めておこう。





あるところに書いてあったヒカリの読書感想文(?)



穂村弘著のエッセィ『本当はちがうんだ日記』を読んだとき、この人は私に近い人だと思った。

確かに近いところはあると思う。
しかし、穂村さんは"恋愛感受性"の高い人のようだ。これは「積極的」「消極的」に分類されるものではない。「モテる」「モテない」でもない。「ホレっぽい」でもない。

私は恋愛に対して憧れや羨望、理想を持ってはいるが、具体的な経験はない。片想いをしたことはあるが、それは、誰かを好きでいることが自分にとって必要だったからではないかと思う。
自分で自分を好きになれないから、誰かが私を好きになってくれることによって補いたい。どうせならその"誰か"というのは自分の好きな人であってほしい、とか。まぁこれはこじつけかな。
幼いながら、好きだったんだよと認めればいい話なのかも。
閑話休題。

穂村さんは恋愛に対して憧れや羨望、理想を持ち、ある程度の経験を持っているようだ。片想いも両想いも。

 「誰のことも、一番好きな相手のことも、自分自身に較べれば十分の一ほども好きじゃないよね、あなたは」

と穂村さんは言われたことがあるそうだ(何年もつきあっていた相手に)。それについては「恋と自己愛」についての項目に詳しく書いてある。ご参照いただきたい。
このように、物事に対して分析的な点も私に似ていると思うのだが、どうだろう?
どうして穂村さんには彼女ができて、結婚できて、
私にはいまだかつて相思相愛になった相手がいないのだろう?

その答えではないが、「男子力と女子力」から。

 「高校生くらいまでは、男子力の不足は致命的だった。(略)しかし、大人になるにつれてそのプレッシャーは徐々に軽減されてきたように思う。
  その理由のひとつは「種目」の多様化だ。(略)
  「種目」の多様化は価値観の多様化に繋がる。何らかの「種目」でポイントをあげられれば、少なくとも価値観を共有する異性へのアピールになる筈だ。男子力がなくても、将棋がめちゃくちゃ強ければ、将棋好きの女子には(もしかすると囲碁好きの女子にも)関心をもって貰えるのだ。」

※ちなみに穂村さんのエッセィでおもしろいのは"(もしかすると囲碁好きの女子にも)"といった部分であることにも言及しておきたい。
しっかーし、ここで本当に言いたいのはその次に書かれていること。

 「女子にとっては女子力の圏外にある長所の多くが恋愛の入口にならないのだ。」

というところ!
ここでは

 「お笑いの女子芸人が「男の芸人はあたしと同レベルのルックスでもみんなモテてるのに、あたしは全く男に相手にされない」と怒っていた。」

という例を挙げている。

 「女子にとっては…」の続きにはこうも書かれている。

 「むしろ出口になることが珍しくない。自分の理解できない「種目」で才能を発揮し始めた奥さんや彼女に旦那や彼氏が冷たくなる。というパターンだ。」

まぁ、これについては彼氏ができた後に考えましょうか?

 「極端な云い方をすれば、女子には「女子」という種目しかないのかもしれない。」

きょ、極論にもっていかないでーーー。


それはさておき、このタイトルがすばらしいね。

もしもし、運命の人ですか。

はい、あなたの運命の人です。



これを読んで唸った。



わが子ながら感心した!



ヒカリのレビューなんだけど、今日初めて読んだ。
パソコンをする私の隣に来て「読め読め」とうるさいから。


> 「女子にとっては女子力の圏外にある長所の多くが恋愛の入口にならないのだ。」


ここを引用しているところなんざ、さすがにわが子だと思った。


若かりしタバスコも同じことを考えていたのだ。

女子力の圏外にある長所の多くが恋愛の入り口にならないから10代のタバスコはもてなかったのだ!。聡明なタバスコは10代にしてそのことをちゃんと認識していたのだ!

だから、おもろい女として生きることに活路を見出したのだった!

とそのことを今ヒカリに告白したのでした。





今朝新聞の一面に「福田総理退任」の大活字。

「タバスコさんに叱られて福田さん辞めちゃいましたね」とmixiではささやかれている。

実は昨日私は福田さんを叱り飛ばしていたのだった。



mixiに書いた日記


伊藤和也さんの葬儀に福田は行くべき。

行ったんやろか?


世界中で、あらゆる危険な場所で高い志を持って地味に働く日本人が、日本国にもたらしてくれる恩恵は計り知れないと思う。

もちろん彼らは日本国のためなどとは思っていないだろう。
ひょっとしたらそれはただの自己満足かもしれない。そんな風に揶揄する人間もいるかもしれない。(ちなみに私はそういう揶揄の仕方をする人間が大きらい)

あなたに(私に)伊藤さんの真似ができるだろうか。

彼はきっと安穏な場所にいて、世界のどこかで血を流したり、貧困に苦しんだりする人たちの痛みを想像して、安穏な場所にい続ける苦痛にたえかねたのだろうと思う。自分以外の人間の苦痛を想像できる人間を私はもうそれだけで尊敬してしまう。
もちろん誰にも他者の痛みを痛む能力はあるだろうけれどその能力は個人差がかなり大きい。あるいは他人の痛みが喜びであったりする人間もいる(らしい)。
そんなことを考えたとき、伊藤さんは人として敬われるべき人であると思う。私たちは彼を敬い彼の死を悼まなければならないと思う。

それは何を意味するかといえば、世界中のあらゆる場所でこの時刻、危険を顧みず地味に働き続ける人たちを敬うために。その人たちに感謝するために。その人たちを励ますために。


日本国の首相たるべき福田は何を置いても、何に先んじても伊藤さんの葬儀に駆けつけ、私たちの表すべき弔意を代弁すべきだと思う。

もし行ってなかったら、私は福田を軽蔑する。



ま、それどこらやなかったご様子。
お気の毒です。

ひどいこと言って、責任を感じます。

プロフィール
HN:
タバスコ
年齢:
67
性別:
女性
誕生日:
1956/05/26
職業:
兼業主婦
趣味:
広範
自己紹介:
おもろいおばはん
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